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TAKUYA KIKUTA

菊田琢也 / TAKUYA KIKUTA

1979年山形生まれ。縫製業を営む両親のもと、布に囲まれた環境のなかで育つ。2003年筑波大学卒。在学時にファッション研究を志す。その後、文化女子大学大学院博士後期課程を修了(被服環境学博士)。現在、文化学園大学非常勤講師、女子美術大学ライティング・アドバイザー。近著に「アンダーカバーとノイズの美学」(西谷真理子編『ファッションは語りはじめた』フィルムアート社2011)、「やくしまるえつこの輪郭 素描される少女像」(青土社『ユリイカ』第43巻第13号2011)など。

E-mail: tak.kikutaあっとgmail.com

A Scene In Between

80年代英国のインディ・ギター・シーンにフォーカスした写真集『A Scene In Between: Tripping Through the Fashions of UK Indie Music 1980-1988』が先月出版されました。

タイトルにある「間」とは、ニュー・ウェーブとグランジという2つのシーンの間のことで、つまりは歴史においてきちんと言語化されないまま残されてきた「隙間」のことです。
従って、この本に収録された写真からは、様式化されることのない雑多なスタイルの数々をまじまじと体感することができます。それは、30年経った現在においてもとても新鮮な輝きを放っており、何と言うか、ワクワクしました。

著者のSam Knee氏は、80年代終わりに一時期、The Mistreatersというガレージバンドのメンバーだった人物。
レコードや古着の収集という趣味が高じて始めた「Leaders of Man」というブログで、60年代ガレージから80年代インディ・シーンを中心とする膨大な史料(写真や切り抜きなど)をこつこつと公開してきたもの(これがとにかくレアなものばかりで凄い!)が、今回こうして一冊の書籍にまとめられたわけです。

さらに、その熱意はこれだけにとどまることなく、「A Scene In Between」というブログを新たに開設し、世界中の人たちが持っている史料を集める呼びかけをしています。歴史家の鑑のような方ですね。

こうした歴史の隙間を埋めていく作業というのは、とても重要なことだなと改めて考えさせられた次第です。
僕もがんばろう。

『A Scene In Between: Tripping Through the Fashions of UK Indie Music 1980-1988』

Green Onions

「当時、音楽ができる若者は限られていた。楽器はおろかレコードプレーヤーもない。だが服はある、持ち物はそれだけだ。自分を特別な存在に変える方法は、何を着るかだったのさ。」

『Sixty Years of Rebellion -The Unique Story of British Music & Street Style-』というドキュメンタリーフィルムの一節です。イギリスのストリートスタイル60年の歴史について、フレッドペリー社が音楽を軸にまとめたものですが、見応えあります。こちらからも観れますので、ぜひ。
http://www.fredperry.jp/60th/film/

インターネットが普及した現在、「仲間を意識するためのサブカルチャーはもう必要ない」という問いを投げかけるかたちで終わるのですが、なかなか示唆的です。

今日において、もしかしたら自分の存在をも変えてしまうほど切実な服ってどういうものだろうか。

かなりご無沙汰の更新になってしまいました。。。
また、少しずつ思うことを書いていきたいな、と思います。

Booker T. & the M.G.’s – Green Onions

Listen, the snow is falling

依田健吾による不定期連載「クローゼット・ファンクラブ」第3回

「シューゲイザー」という音楽ジャンルをご存じだろうか。
80年代後半から90年代の前半にかけてイギリスの音楽シーンに小さいながらもインパクトを与え、今なお世界中にマニアが存在している音楽である。近年再び盛り上がりを見せるシーンであるが、いかんせんマイナーにとどまり続けているし、これからもそうだろう。

その歴史や音楽性について語ってしまうと長くなってしまうので興味のある人はグーグル先生にでもお願いしてほしいのだが、簡単にいうと浮遊感あふれるギターと内省的なヴォーカルが特徴のサイケデリックなロックの一ジャンルだ。Coldplayや日本のSupercarに多大な影響を与えた、クラブミュージックとも親和性が高い音楽と付け加えれば、ファッショニスタの方々も少しはイメージが広がるだろうか。

さて、ポップ・ミュージックはファッションとの関連性を無視できないものだが、そんなシューゲイザーのバンドのファッションはというと、それはもう笑ってしまうほど「つまらない」のである。
元々80〜90年代のインディシーンというのは「アンチ・ファッション」のリアルさが魅力なのだが、シューゲイザーに至っては、もう1ミリも衣服になんて気を使っていない人たちばかりなのである。それはそれで等身大の魅力があるのだが、カリスマ性に欠けるミュージシャンの服装というのはキッズの胸に刺さりにくく、少なくともシューゲイザーバンドの写真を見て若者が「僕もロックスターになりたい!」と思うことはないだろうし、それが近年のインディシーン低迷の一因につながっているのかな、とも思わずにはいられない。
とにもかくにも、シューゲイザーというのはそのサウンド(とそれを生み出す機材)ばかりが語られるジャンルなのだ。

だが、実はシューゲイザーの祖先とも言われるVelvet Undergroundや、そのエッセンスをより原始的に、かつポップに展開し、後のシューゲイザーの基礎を作ったJesus & Marychainといったシューゲイザー初期の重鎮は、ともに黒ずくめのステージ衣装で、当時の流行を鑑みると異端だったし、今見てもオシャレである。
前者は50年代のビートニク、後者は80年代初頭のニュー・ウェーブの流れをくんでいると考えられるが、ではなぜシューゲイザーのグループはファッションを捨ててしまったのだろうか。

Velvet Undergroundの1st(バナナのジャケットで有名なアレ)に対し過去の「STUDIO VOICE」で興味深い評論がなされており、この「シューゲイザーは音はオシャレだがメンバーはダサい問題」に対する一つの答えになっているので、この場を借りて紹介したい。

「(前略)レンズに光が入り込んでしまう瞬間のハレーションと、ギターマイクにスピーカーから出た音が入り込んでしまうハウリングは同質のモノだからだ。発振し始めた瞬間、本来の輪郭は歪められ溶解が始まる。他ならぬ自身の発生させた共鳴によって、世界の側に自己が流れ出す感覚は、何を失うでも引き替えにするでもなく自分が自分でなくなる、世界と重なり合う体験である。(後略)」
(岸野雄一 「STUDIO VOICE」1997年8月号より引用)

彼らの黒ずくめのステージ衣装は一説には「ウォーホルのインスタレーションで使われるストロボを考慮した」とも言われているが、単に前述のようにビートニクからのつながりを指摘したり、演出上の都合を理由としたりするよりはこの岸野氏の指摘から推測し、「色でない色」を身にまとうことで自らの存在を消し、共鳴・発振させるツールとして用いている、と解釈した方がファッションとしては面白くはないだろうか。

もっと言うと、シューゲイザーのグループは「自己」と「世界」との関係において、ファッションによって非日常(=エンターテイメント)を演出するのではなく、エフェクトされた音像の意外性によって自らと外的世界(生演奏であれば聴衆)とを繋げていくことを選択したのである。

そこからもう少し発展させると、シューゲイザーの面々は服装には全く気遣いがされていないかもしれないが、ウォーホルに及ばないにしても、それぞれがアートワークに凝っていることも挙げられる。トレモロで揺らしたギターの音が容易に想像できる輪郭のぼやけた抽象的な写真を使用したものが多いのだが、それはヴィジュアルによる主張の手段が必ずしもミュージシャンのルックス(や見た目のインパクト)だけではないことを示唆している。

特に、シューゲイザー界で最もアイドル的要素が強かった(メンバーの見た目が、という意味で)バンドであるRideが、その初期作品において全くメンバーの写真に頼ることなく独特の世界を構築していたことは「自己表現を行う」ための手段が必ずしもファッションではないことを示しているし、同時に闇雲に着飾る私達に何かを諭しているようにさえ感じられてしまう。

「自分は主役じゃないんだけど」とでも言いたげな、少し居心地の悪そうな気恥ずかしいような佇まい。
足元のエフェクト・ペダルを凝視する(これがシューゲイザーの由来)彼らは自ら作品におぼれることなく、またポップ・スターにありがちな「着飾った姿」や「がむしゃらに演奏する姿」を武器にすることもなく、あくまで作品が主体であろうとしている。

そんなシューゲイザーの方々に私達は、「そのTシャツ、サイジングおかしくね?」などと突っ込む余地などないだろうし、まして「そこまで(音やCDジャケットに)凝る労力を服にも使ったら?」と言えるはずもないのである。

ちなみに、シューゲイザーは特に日本と北欧にファンが多いらしい。いずれも比較的寒い地域であるが、我が国でいえばシーンで最初にメジャーデビューを果たしたシューゲイザーバンドPaint in water colourは一年の大半を雪と雲に覆われた港町、新潟のグループだ。
陰鬱な気候に内省的な気質の人が多く、漫画家をはじめ多くのクリエイターを輩出しつつも、同時に孤独に耐えかねて自ら命を絶ってしまう独居老人も多いとされる新潟。
同じように霧に覆われたイギリスで産まれたシューゲイザーは、雪に閉ざされた部屋で見るつかの間の夢の姿なのかもしれない。その短い旅に必要なのは最新のモードではなく、日常を脱却するのを邪魔しない文字通りのリアル・クローズなのだ。
(文:依田健吾)

Galaxie 500: Listen, the Snow is Falling

John Lennon & Yoko Ono: Listen, the Snow is Falling

原宿NOWHERE

1993年にNIGO®と高橋盾が原宿にオープンしたNOWHERE(ノーウェア)。これが「裏原系」というシーンの発端とされていますが、さて、このノーウェア、はたして原宿のどこにあったのでしょうか?

ある資料には「竹下通りにオープン」と記載されています。別の資料には「表参道から1本入った場所」と書いてあります。あるいは、「原宿の裏通りに」と説明しているものもあります。
このように、ノーウェアは、いささか曖昧なかたちで、そして微妙なズレを伴いながら、原宿の「裏」という場所に存在していたショップとして記述されてきました。

そこで、ノーウェアの所在について調べようと思い、国会図書館に行ってみました。
NIGO®と高橋盾が『宝島』誌に連載していた記事(92.4.9号〜94.7.24号)を漁り、当時の経緯について調べようと思った次第です。しかし、正確にその所在を知ることはできませんでした。というのは、連載記事のほとんどが(見事に!)切り抜かれていたからです。
当時のストリートファッションに関する資料は散逸してしまっているのが現状で、まとめて調査するには労を要するのですが、こうした貴重な資料の紛失は非常に残念なものです。
もはや当時実際に通っていた人にしかわからない場所になりつつある、と言ってしまっても過言ではないでしょう。

そもそも、裏原系の「裏」とは表参道というメインストリートに対する「裏」であったり、60年代から原宿文化の拠点であったセントラルアパートに対する「裏」であったりするのですが、ようするに、原宿のメインストリームに対する「裏」というニュアンスがそこにはありました。それは、ハイブランドに対するストリートブランド、奇抜な装飾性に対するシンプルなカジュアルさ、トータルコーディネートに対するレイヤードミックスもしくは着崩し、といった意味合いも含みます。

しかし、96年のセントラルアパートの解体、原宿駅前のテント村の撤退に始まり、98年のホコ天の廃止など、これまで原宿の「表」舞台を形成していたものが90年代終わりに次々と消失し、文化的な磁場が大きく変化していきます。
「裏原宿」という言葉がメディア上で使われるようになるのは95年頃からですが、それからわずか数年の間に、裏原系は「表」=メインストリームを喪失したサブでもカウンターでもないカルチャーとなっていったのです。

それを象徴していたのが、やはりノーウェアでして、文字通り原宿という場所性の喪失を示唆しているようでもあったノーウェアは、リニューアル、移転、姉妹店オープンを経て(たぶん)、99年になると原宿を離れ、青山に移転してしまいます。
ちなみに、僕が通ったことがあるのはこの青山のノーウェアで、今思えば、原宿ではない場所で「裏原宿」を間接的に体験していったような感じがあります。

裏原系は、しばしば「特徴なきスタイル」と言われたりもしますが、それは、着用者の固有性(着る人自体のかっこよさによって成立するスタイル、◯◯着という付加価値)、セレクションとスタイリングのセンス(多様なジャンルを横断するサンプリング的なレイヤード、あるいはマニアックな収集)、小さなコミュニティ内での価値の共有(一見すればどれも同じように見えるマイナーなレアもの)、「いま-ここ」という一回性(当事者であることの重要性)によって成立していたカルチャーであったからでしょう。
(続く)

SPRING BREAKERS

先日、ハーモニー・コリン監督の新作『スプリング・ブレイカーズ』を観賞させて頂いた。

コリンらしからぬ鮮明さが目眩を誘うその映画は、言ってしまえばフロリダ版『ヴァージン・スーサイズ』のようだ。どちらもガールズの思春期を、あっという間に過ぎ去ることが宿命付けられたそのひとときを描いているという点においてである。
ただし、ミシガンの平穏な片田舎がフロリダの刺激的なビーチに、ワンピースドレスがビキニに、キャデラックが高級スポーツカーに、ティアラがフェイスマスクに、そしてトリップがエイリアンに置き換えられてはいるが。

チック(イケてる女の子)がクリック(銃)を持ってサバイブする。それがこの映画のすべてである。
ダイナーを襲撃し、フロリダ旅行の資金を手に入れた4人の女の子たちは、パラダイスのようなビーチでスプリング・ブレイク(春休み)を満喫する。高級車にナイスガイ、マネー、ドラッグ、ギャングスタ、バード、性的な隠喩、そして白人対黒人。ヒップホップのミュージックビデオで引用される常套句が周到に散りばめられ、今日的なアメリカン・ドリームを描き出す。それはとてもゴージャスで、それでいてどこかニセモノっぽい。
セレーナ・ゴメスやヴァネッサ・ハジェンズといったディズニー映画で一躍有名になったアイドル女優の起用もまた、そうしたニセモノっぽさを演出している。

映像はリフレインし、あるいはスローなテンポを刻む。とても音楽的な映画だ。
随所でポップアイコンの楽曲が挿入される。これもまたコリンらしからぬ演出である。ブリトニー・スピアーズの「…Baby one More Time」が表すのは早熟なキュートネスで、スクリレックスの「Scary Monsters And Nice Sprites」が象徴するのはひずみまくったクールネスだ。おそらくそれが、今日の異性受け(モテ)と直結するような「かわいい」であり、「かっこいい」なのだろう。

ソフィア・コッポラは、かんたんに忘れてしまいそうな幼い頃の思い出を(それは自身の記憶が強く投影されたものであるのだが)、淡いフィルターを通して繊細に映像化していくことで、ノスタルジックなガーリーイメージを作り出してみせた。それは、永遠に少女であり続けることを願う女の子たちの願望そのものであった。

それに対し、ハーモニー・コリンが『スプリング・ブレイカーズ』で描いていたのは、欲望を剥き出しに前へ前へと突き進む女の子たちの姿であり、つまるところ、早く大人=自由になりたいという早急さであった。そして、そうした夢や自由というのは得てして、男どもを魅惑し、大金を手にし、開放的な生活を送るといった類いのMTVで繰り返し流れるゴージャスでチープなイメージへと直結しがちである。おそらくそれが、今日的なアメリカン・ドリームなのだろう。

コリンがこれまで描いてきたのは、ホワイトトラッシュ(下層白人)の文化であり、それは本作においても一貫していた。
結局のところ僕らは、思春期のなかでヤってしまったことに対して後々後悔するし、それと同様に、ヤラなかったことに対してもまた後悔するのだ。それがどんなにロマンチックであったとしても、あるいは、どんなに愚かであったとしても。思春期における決断とは、そういうものなのだろう。
全くもってコリンらしからぬコリンらしい映画であった。

その列の後ろに並ぶ

ア・ベイシング・エイプ®が次々と生み出していった「猿」のロゴやタグは、まるでクラブイベントで入場パスとして貼られるステッカーのように、その時その場にいなければ手に入らないもので、エイプ®の服はまさにそうした「いま-ここnow here」というリアリティと結びついていたのではないでしょうか。

すべてが横並びの記号となった80年代以降に漂い始めたのは、あらかじめすべてが用意されてしまっているかのような満ち足りた退屈感で、それでいて、すべてが手に入るようで手に入らないといった薄らとした空しさで、それは例えば岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で描いていたような、あるいは吉田修一が『パーク・ライフ』で綴っていたような、存在の耐えられない軽さであった。

おそらく、90年代にクラブハウスやライブハウスが相次いで出現したのは、どこでも容易に感じられるような希薄なリアリティではなくて、「いま-ここ」でなければ体験することのできない確かさを感じさせてくれる居場所を求める傾向が強くなってきたからではないかと思うのです。それゆえに、極めて限定された空間であるからこそ、撤退していくのも早かった。

原宿のストリートファッションもそうで、「リミテッド」や「ワンオフ」といった数量限定のアイテムは、週末朝早くにエイプ®の店頭に行って並ばなければ手に入れることができないもので、それはどこかクラブハウスに通うような快楽と興奮を感じさせてくれた。あっという間に熱が冷めることは分かっていながらも、躊躇しているとたやすく誰かに奪われてしまうその機会を逃すまいと、その列に並ぶのだ。

誰も持っていないものが欲しかったのだと思う。他人とは違う自分になりたかったのだと思う。
セレクトショップに行けばある程度のものが揃っていて、ファッション誌の通りに着こなせばそれなりの格好になれる。そんな時代だからこそ、容易に手に入らないものが欲しかったし、着たかったのだと思う。
記号の差異化ゲームと言ってしまえばそれまでなのですが、それ以上のものがそこにはあったと思うのです。

別に悪ぶりたいから着崩すわけではない。だらしないからでもない。ましてや社会への反抗なんかではさらさらない。ただ同じような格好をするのが何となく居心地悪かっただけ。
90年代後半とはそんな時代だったのではないかと思います。少なくとも僕にとっては。
(続く)

猿は猿を殺さない

先日のトークイベントにお越し下さった皆さまありがとうございました。

椹木野衣さんが『シュミレーショニズム』(洋泉社1991)のなかで総括しているように、80年代に登場した「カットアップ、サンプリング、リミックス」という手法は、90年代前半にはファッションデザインにおいても多用されるようになりました。
平たく言えば、デザインにおける「編集」という方法論です。
90年代にセレクトショップやスタイリストが注目されるようになるのもここに関係しているかなと思います。

ア・ベイシング・エイプ®の仕事は、NIGO®のモノマニア的な視点=編集者としてのセンスから、アメリカン・カルチャーを次々とサンプリングし、それらを東京的な感覚でリミックスすることで、無数のバリエーションを作り出していくことにあったと僕は考えます。

例えば、ブランド開始初期に見られるオネイタ、キャンバー、チャンピオンのTシャツやスウェットをボディに使用し、それらにプリントしていく服作り。
あるいは、リーバイス、リー、ラングラー、ブルックス・ブラザーズなどのオリジナルタグをモチーフに、パロディ的なエイプタグを次々とデザインしていった行為。
それから、カーハート、ステューシー、エクストラ・ラージに始まり、リーガル、ソレル、モダニカ、ハミルトンといったアメリカのストリートブランドやプロダクツブランドとのコラボレーションなどなど。

それは、アンディ・ウォーホルのポップアートとも、グラフィティアートのマーキングとも、ヒップホップのマッシュアップとも通じるような仕事だったと思うのです。
「エイプカモ」や「ベイプスタ」に見られるバリエーションの豊富さはその代表例ですね。

「リミックス」というデザイン手法は、今日しばしば取り上げられる複製問題や著作権問題とも関わってくることなので、これからも考えていきたいなと思っています。
(続く)

remixとrelax

ア・ベイシング・エイプ®と90年代カルチャーについてのトークイベントを今週末にします。
詳細はこちらに。
Think of Fashion 005: A BATHING APE® ~1990年代、リミックスとリラックス~

リミックスとリラックスというサブタイトルは半分冗談で付けたのですが、90年代に創刊された2つの雑誌名からとったものです。

1991年に創刊された『remix』(アウトバーン)は、「Street and Club Sounds Magazine」をサブタイトルにヒップホップ、ハウス、テクノなどのクラブシーンの情報を詳しく紹介する音楽誌でした。
他方、1996年に創刊された『relax』(マガジンハウス)は、「Magazine for Relax Age」をテーマに、岡本仁、小野英作、渋谷直角、若木信吾、佐内正史、ホンマタカシといった新しい世代が中心となって、程よく気の抜けたカルチャーを発信していきました。
リミックスとリラックス。どちらも90年代カルチャーの特徴をうまく捉えていた言葉だと思います。

90年代のストリート・カルチャーを代表するNIGO®とア・ベイシング・エイプ®も、やはり『remix』と『relax』で取り上げられています。
「ぬるま湯に浸かった猿」という正式名称を持つエイプ®は1993年にスタートし、NIGO®のモノマニア的な視点から、アメリカン・カルチャーを次々とサンプリングし、それらを東京的な感覚でリミックスしていくことで、ストリートに無数の「猿」を解き放っていきました。
それは次第に90年代後半に浮上する「リラックス・カルチャー」と結びついていったのではないかと思うのです。

例えば、1996年にデビューしたPUFFY。
「アジアの純真」というタイトルにも関わらず、「北京ベルリンダブリンリベリア」という歌い出しから始まる何とも気の抜けたライムを、脱力感たっぷりに歌うPUFFYの2人は、そのファッションとも相まって、90年代後半に浮上する「リラックス」「ルーズ」「グランジ」「ローファイ」「ゆるさ」といった感覚を見事に体現していました。
また、次曲「これが私の生きる道」に典型的に見られる奥田民生によるビートルズ(っぽさ)のサンプリングによる曲作りは、雑多な情報をいかに選別・編集するかといったプロデューサーの「センス」が問われる時代性ともマッチしていました。

ここで注目したいのは、こうした「リラックス」的な感覚とは、今日の「ゆるさ」とは異なり、ある種のカウンター・カルチャーとして機能していたのではないかということです。
(続く)

I Wanna Be Me

お久しぶりの更新になってしまいました。
ここ数ヶ月、仕事に追われまくっておりましたが、もう少しで落ち着きそうですので、来月頃からまた少しずつ書いていきたいなと思っております。引き続きどうぞよろしくお願いします。

さて、今週末にこんなことをやらせて頂くことになりました。
http://changefashion.net/news/2012/10/18141912.html

直近のお知らせになってしまいすいません。
トークはあまり得意ではないのですが、、、ご興味おありの方がいらっしゃいましたら、足を運んで頂けると幸いです。
難しいことは話せません。ファッションってこんなに楽しいんだよってことなら話せると思います。
以下、概要文(全文バージョン)。

「ヴィヴィアン・ウエストウッドとその受容」
パンク・ムーヴメントの象徴として、あるいは英国を代表するデザイナーとして知られるヴィヴィアン・ウエストウッド。挑発的でありつつもエレガントな服作りは、1970年代以降、路上からランウェイまで多くの人たちに影響を与えてきました。今回は、そうした1人のデザイナーの足跡を辿るとともに、彼女が残したアイテムの数々が、日本の女の子たちからどのように受容されていったのかについて探ることで、ファッションの「着る」という側面について考えてみたいと思います。
セディショナリーズ、パンクス、ニューロマンティクス、ヴィヴィ子、ロリィタ、ゴシック、原宿ストリート、矢沢あいの読者、バンギャ、ギャル、女子高生などなど。日本において、ヴィヴィアン・ウエストウッドは、ストリートからクラブ、ライブハウス、あるいは、雑誌、マンガ、アニメといった様々なフィールドを縦横無尽に行き交いながら、多くの女の子たちから愛され、着続けられてきました。「伝統を未来に繋げていく」を意味するオーブマークに、女の子たちは果たして何を投影してきたのでしょうか。
ロッキンホースを履いたときの少し背伸びした感覚を、アナーキーシャツと共に着るパンクの思想を、フリルに高襟にパニエにバレリーナに甘くときめくロマンチシズムを、深淵な黒一色に包まれて耽溺するゴシックな精神を、解体されたタータンチェックと歪んだアーガイルによって表現されるアングロマニアを。
あるいは、ファッションの多面性を語るということ。

当日は雨のようです。
どうぞ足下にはお気をつけてお越し下さいませ。

Sex Pistols: I Wanna Be Me

The Times They Are a-Changin

依田健吾による不定期連載「クローゼット・ファンクラブ」第2回

時代の転換期、というものに立ち会うというのはどんな気分なのだろう。
我が国でいえばフォークゲリラが新宿西口を占拠した1968年や、ニュー・ウェーヴとウォークマンで街の景色が塗り変えられた1979年あたりがそれにあたるのだろうが、私は残念ながらそうした時代を生きていない。ITによる変化のスピードはそれより速いが、もっとこう、毎日わくわくさせられる何かがあるように思えるのだ。

私の手元に1965年製のフェンダー・ジャガーというギターがある。
経営難でCBSグループに買収される前年、フェンダー黄金期最後の製造で、当時はかの「ストラトキャスター」より高額なフラッグシップモデルだった。
ジャガー自体はストラトを抱えたジミ・ヘンの登場によって主力から退いていくのだが(蛇足だが当時のジャガーが不人気故に中古市場で安価だったため、80〜90年代のミュージシャンによって愛用され、音楽、ファッションの世界に多大な影響を与えたことは興味深い)、上位機種のみに採用されたメタリックカラーも相まってなんとも魅力的な佇まいである。
CBSに買収されたフェンダー社のギターはその後生産の効率化でシェアを拡大するが、ファンにとっては「65年以前」と「66年以降」が別物であるという意見が強い。
「大量生産で味気なくなった」というのがその主な理由だが、これは実はファッションの世界にも全く同じ現象が見られる。「リーバイス」のジーンズである。

ファッションに関心のある人なら知らない人はいないだろうからリーバイスに関する説明は省くが、フェンダー社同様リーバイ・ストラウス社も時代の流れで1965年に株式公開を行い、翌年より利益率を重視した大量生産の体制での経営へとシフトチェンジを行っている。
かの名作ジーンズ「501」も、65年以前と66年以降ではシルエットはもちろんのこと生地、パーツからミシンの使い方までを変更していき、それが皮肉にも「たまらない味」としてマニアに珍重されているが、化学繊維や効率重視の服作りの是非はともかく、ファッションが時代から逃れられない最も分かりやすい例の一つではないだろうか。
ちなみに私は501を40年代後期〜50年代初頭製造のものと66年(もしくは67年)に製造されたものの二本を所有しているが、本当に面白いくらい違っています。

さて、こうした変化がなぜ1965年に集中したのだろうか。
強引に因果関係を見出すならば、同年から始まった(正しくは「アメリカが介入した)ベトナム戦争の影響が大きいだろう。名実ともに「世界一」だったアメリカが初めて挫折を味わったこの戦争は、当初は国民全体が楽観視していたとはいえ、産業の面ではとてつもないインパクトだったのだろう。

音楽の世界では、1965年にはボブ・ディランがエレクトリック楽器を導入し、翌66年にはビーチ・ボーイズが名作「ペット・サウンズ」をリリースする。特に後者は録音技術の向上が前提で、時代が大きく変化していることを今聴いても感じさせるものだが、いずれもビートルズの登場が大きく影響しているのは間違いない。
彼らがアメリカデビューを果たしたのが1964年。その頃には、既にアメリカの変化は始まっていたのかもしれない。

アメリカが黄金期と呼ばれた50年代の終わりは1962年のケネディ暗殺だった、とよく言われているが、それが表面化したのが1965年前後で、ビートルズ(というロックというアメリカ文化に対する伝統の国からの回答)と戦争という全くの外的要因だったことは、こじつけにしてもモノづくりをする人には嫌でも考えさせられる事実だと思うのだがどうだろうか。
(文:依田健吾)

Bob Dylan: The Times They Are A-Changin’

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マイルズ・デイヴィスがエレキギターと電子ピアノを最初に導入したアルバム『Miles in the Sky』を発表したのは1968年のことです。
1968年は、パリ5月革命を象徴とする世代交代の年とされていますが、パリ・コレクションにおいてもオートクチュールからプレタポルテへと主流が移行した年として知られています。もちろん、わずか1年で何もかもががらりと変化するわけではないのですが、それ移行、ファッション・ショーにおいて次第に必須となっていったのが「音楽」でした。

今夜はあがた森魚の『バンドネオンの豹(ジャガー)』を聴こう。

音楽を着る♪03 I Am the Sea

誰にでも青春時代を思い出すアイテムというものがあると思う。
僕にとってその1つが「モッズパーカー(コート)」である。
あの頃のヒーローは、モッズパーカーを着て歌うオアシスのリアム・ギャラガーで、仮面ライダーの変身ベルトのように、身に着けたら強くなれるような気がしたのだ。
と言うほど大げさではないのだけれど、少なくとも、「D’you Know What I Mean?」という問いかけに頷くことができる気がしたのは確かだ。

結局、「モッズパーカー」を初めて入手したのは大学2年になってからのことである。
入り組んだ道が連なる下北沢の街をよくも分からず徘徊し、何となく入った店で軍物のコートを買った。
古着特有の甘ったるい匂いと、随所に残る使い古された痕跡とに、嗅いだことのない異国の空気を感じ、そのコートには「本物」の時間が染み込んでいるんだろうなと思った。
高速バスと電車を乗り継いでようやく辿り着いた音楽の街で買ったという体験も相まってのことかもしれない。この瞬間を逃したら二度と手に入れることのできない特別な一着のようにさえ感じられた。
もちろんそんなことはなく、傍から見れば何の変哲もないコートなのだけれど、そんな服との出会いというのは大切だ。

隣の芝生は青いとはよく言ったもので、行ったことのない国や街で呼吸される空気は、きっと今いる場所よりも新鮮で濃厚な味がするんだろうなぁと思っていたのはいつの頃までだろうか。
まだ吸ったことのない空気を味わいたくて、夢中になって洋楽を聴き、洋画を観、海外小説を貪り読んだ。
僕にとって、服を着るという行為もその1つだったりする。

モッズパーカーを手に入れるまでにいささか時間がかかったのには一応理由がある。
高校生の頃、テレビで『踊る大走査線』が放映されていて、織田裕二演じる青島刑事がヒューストンのモッズパーカーを着て登場した。
それを観たとき、これまで遠くにぼんやりとあったものが、ものすごく身近なものとして露になり、何となくチープに思えてしまったのだ。ようするに、自分だけの特別と思い込んでいたものが、思わず人気になってしまったときに感じるあれである。
とは言っても、苦悩しながらも現場を奔走する青島刑事はいつもかっこよく、その姿にモッズパーカーはとてもよく似合っていた。

ご存知の通り、モッズパーカーというアイテムは、元々はアメリカ陸軍の防寒着として開発された「M-51」と呼ばれるコートである。1951年に製造されたからそう名付けられているわけだが、それから7、8年後のイギリスで、「モッズ」と呼ばれる若者たちが着始めたことによって、「モッズパーカー」と呼ばれるに至る。

ご自慢のイタリア製スーツが、乗り回すヴェスパの砂塵によって汚れてしまうことを防ぐ目的で、彼らはそのコートを羽織った。
映画『さらば青春の光』にはそうした若者たちが登場する。広く知られているモッズ像だろう。
ただ、その若者たちのなかには、スーツなんか着ないで、シャツやトレーナーの上から乱雑に羽織るモッズ青年たちもいる。後に「ハード・モッズ」と呼ばれる若者たちである。
本を読んだりするなかで、モッズという現象のなかにも、いろんな若者たちがいることを知った。

仕事にやりがいを見出せず、両親のような大人にはなりたくなく、かといって夢や目標もなく、恋人ともうまくいかず、憧れていたヒーローに幻滅し、ヴェスパに乗って崖から飛び立つこともできない苦悩する若者の姿に、「カウンターカルチャー」と言うものの意味についても考えさせられた。

もしかしたら、青島刑事もそんな葛藤する若者の1人として描かれているのではないだろうか。
彼が「モッズパーカー」を着ているのは、組織や権力に対して抵抗する若者像といったものの他に、「現場」で繰り広げられる群像劇という意味合いが込められているのではないだろうかとふと思った。
事件は現場で起こる、のである。
そう思うと、一時期チープに思われたモッズコートも、また青々と輝いてみえた。
と言うほど大げさではないのだけれど、例えば、『東のエデン』の滝沢朗が、『ボーイズオンザラン』の田西敏行が、『おやすみプンプン』の関真澄がモッズパーカーを着ているのにもそんな理由があるのかなと思う。
彼らは不特定多数の若者ではないのだ。

「モッズパーカー(コート)」という名称は、昨今ではミリタリーっぽいカーキのコート全般を指すものとして何となく使われている節がある。いろんなブランドからM-51っぽい(なかにはM-51っぽくもない)デザインのコートが量産され、モッズパーカーと呼ばれて販売されている。
別に「それはモッズパーカーじゃないよ」と言いたいわけではない。
ただ、かたちとしてだけでなく、アイテムと共に受け継がれていく物語のようなものがあってもいいと思うのだ。

中学3年生の頃、学年集会である先生が「春はなぜ青いのか」という話をしてくれたことがある。
けれど、僕はなぜかその理由を聞き逃してしまった。
知ってしまったら、何かが終わってしまうような気がして、ふと耳を遠ざけたのかもしれない。

『さらば青春の光』のラストに登場するブライトンの海が、永遠に青いままであってほしかったのだろう。

You can’t always get what you want

音楽を聴くという行為はあくまでも個人的な体験である、と言ったのは僕の友人だ。
大江健三郎のタイトルを引用したその言葉は、何ものにも代え難い価値について示唆している。
例えば、ある子の鞄にはダッフィーのストラップが付いている。
それはお洒落なのか、流行りなのか、それとも思い出の品なのか。本当のところは彼女だけが知り得ること。
ファッションとは流行現象だ。けれども、そこには無数の「個人的な体験」が溢れているのではないだろうか。

下記に掲載するのは、冒頭の友人が書いた文章である。
これから不定期的に紹介していきたいなと思っております。何かしらの連鎖反応が生まれることを期待して。

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依田健吾による不定期連載「クローゼット・ファンクラブ」第1回

ファッションに興味のある人なら、一度はミュージシャン、あるいは音楽に密接なファッションに心を奪われたことがあるだろう(と思う)。
モッズ、パンク、ヒップ・ホップのように様式化されたものはもちろんのこと、現在もファッション・アイコンとして伝説となっているミュージシャンを挙げればきりがないし、知らず知らずのうちにそうしたポップ・ミュージックから派生したファッションを取り入れていることも少なくないはずだ。

我々にとって最もリアルなポップ・ミュージックであるロックが誕生してからもうすぐ60年が経とうとしているが、その中で最もキャリアが長いバンドといえばRolling Stonesだ。
初期リーダーであるブライアンのファッションセンスはもちろんのこと、ご存じミックやキースのカリスマ性で強引にかっこよく見せるスタイルも見逃せない。
彼らを見ると、我々が一生懸命コーディネートを考えたり、ファッション雑誌をめくったりする行為そのものが「才能のなさ」の証明となっているようで、ほんの少しだけ自分が惨めな気持ちになる(あくまで「ほんの少しだけ」だ)。

さて、そんな巨人二人とデビューから一貫して活動を共にしているチャーリー・ワッツという男をご存じだろうか。ジャズに影響されてドラムをはじめ、名実ともに世界一のロック・バンドであるストーンズに在籍しながらも「ロックは子供の音楽」と公言し、メンバーのファッション・スタイルがその時々の流行に合わせて変わっていく中、一人だけサヴィル・ロウ仕立てのスーツを着続けている(一時期長髪にサイケな服装だったこともあるが)彼こそが、音楽史上最もロックでダンディな男なのではないだろうか。
何より、ミックやキースと涼しい顔をして長年共に存在していること自体が、彼が並の人間ではないことを表している。

巷にあふれる「ロック風」ストリート・ファッションは若さの特権でいくらでも形だけは真似ることが出来るが、チャーリーのアナクロな英国紳士スタイルは仮に100万円つぎ込んでも真似は出来ないし、かといって年齢を重ねたからといって到達することが出来ないかもしれない。
ぱっと見は「渋いおっさん」と見せかけて、チャーリーのそれはかなりハードルの高い着こなしである。

90年代のストリートもゼロ年代のデザイナーズもファストファッションに駆逐され、さらにそれさえもITに追いやられつつある現在、「消費されないファッション(言葉自体に矛盾があるが)」を確立していくことも必要なのではないかと個人的には考えている。

上記のようなファッションの「古きよき時代」を知る私たちは、今こそチャーリーを目指す時なのかもしれない。
(文:依田健吾)

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「(You can’t always get) what you want」は、コーネリアスの曲です。1994年、小山田圭吾はローリング・ストーンズの名曲をカッコに括ることで、別モノへと置き換えた。この「引用」という手法は、渋谷系から裏原系へと引き継がれていくわけですが、今日の日本ファッションについて考える上での、1つの足掛かりになるのではないでしょうか。