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TAKUYA KIKUTA

菊田琢也 / TAKUYA KIKUTA

1979年山形生まれ。縫製業を営む両親のもと、布に囲まれた環境のなかで育つ。2003年筑波大学卒。在学時にファッション研究を志す。その後、文化女子大学大学院博士後期課程を修了(被服環境学博士)。現在、文化学園大学非常勤講師、女子美術大学ライティング・アドバイザー。近著に「アンダーカバーとノイズの美学」(西谷真理子編『ファッションは語りはじめた』フィルムアート社2011)、「やくしまるえつこの輪郭 素描される少女像」(青土社『ユリイカ』第43巻第13号2011)など。

E-mail: tak.kikutaあっとgmail.com

SPRING BREAKERS

先日、ハーモニー・コリン監督の新作『スプリング・ブレイカーズ』を観賞させて頂いた。

コリンらしからぬ鮮明さが目眩を誘うその映画は、言ってしまえばフロリダ版『ヴァージン・スーサイズ』のようだ。どちらもガールズの思春期を、あっという間に過ぎ去ることが宿命付けられたそのひとときを描いているという点においてである。
ただし、ミシガンの平穏な片田舎がフロリダの刺激的なビーチに、ワンピースドレスがビキニに、キャデラックが高級スポーツカーに、ティアラがフェイスマスクに、そしてトリップがエイリアンに置き換えられてはいるが。

チック(イケてる女の子)がクリック(銃)を持ってサバイブする。それがこの映画のすべてである。
ダイナーを襲撃し、フロリダ旅行の資金を手に入れた4人の女の子たちは、パラダイスのようなビーチでスプリング・ブレイク(春休み)を満喫する。高級車にナイスガイ、マネー、ドラッグ、ギャングスタ、バード、性的な隠喩、そして白人対黒人。ヒップホップのミュージックビデオで引用される常套句が周到に散りばめられ、今日的なアメリカン・ドリームを描き出す。それはとてもゴージャスで、それでいてどこかニセモノっぽい。
セレーナ・ゴメスやヴァネッサ・ハジェンズといったディズニー映画で一躍有名になったアイドル女優の起用もまた、そうしたニセモノっぽさを演出している。

映像はリフレインし、あるいはスローなテンポを刻む。とても音楽的な映画だ。
随所でポップアイコンの楽曲が挿入される。これもまたコリンらしからぬ演出である。ブリトニー・スピアーズの「…Baby one More Time」が表すのは早熟なキュートネスで、スクリレックスの「Scary Monsters And Nice Sprites」が象徴するのはひずみまくったクールネスだ。おそらくそれが、今日の異性受け(モテ)と直結するような「かわいい」であり、「かっこいい」なのだろう。

ソフィア・コッポラは、かんたんに忘れてしまいそうな幼い頃の思い出を(それは自身の記憶が強く投影されたものであるのだが)、淡いフィルターを通して繊細に映像化していくことで、ノスタルジックなガーリーイメージを作り出してみせた。それは、永遠に少女であり続けることを願う女の子たちの願望そのものであった。

それに対し、ハーモニー・コリンが『スプリング・ブレイカーズ』で描いていたのは、欲望を剥き出しに前へ前へと突き進む女の子たちの姿であり、つまるところ、早く大人=自由になりたいという早急さであった。そして、そうした夢や自由というのは得てして、男どもを魅惑し、大金を手にし、開放的な生活を送るといった類いのMTVで繰り返し流れるゴージャスでチープなイメージへと直結しがちである。おそらくそれが、今日的なアメリカン・ドリームなのだろう。

コリンがこれまで描いてきたのは、ホワイトトラッシュ(下層白人)の文化であり、それは本作においても一貫していた。
結局のところ僕らは、思春期のなかでヤってしまったことに対して後々後悔するし、それと同様に、ヤラなかったことに対してもまた後悔するのだ。それがどんなにロマンチックであったとしても、あるいは、どんなに愚かであったとしても。思春期における決断とは、そういうものなのだろう。
全くもってコリンらしからぬコリンらしい映画であった。

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