1993年にNIGO®と高橋盾が原宿にオープンしたNOWHERE(ノーウェア)。これが「裏原系」というシーンの発端とされていますが、さて、このノーウェア、はたして原宿のどこにあったのでしょうか?
ある資料には「竹下通りにオープン」と記載されています。別の資料には「表参道から1本入った場所」と書いてあります。あるいは、「原宿の裏通りに」と説明しているものもあります。
このように、ノーウェアは、いささか曖昧なかたちで、そして微妙なズレを伴いながら、原宿の「裏」という場所に存在していたショップとして記述されてきました。
そこで、ノーウェアの所在について調べようと思い、国会図書館に行ってみました。
NIGO®と高橋盾が『宝島』誌に連載していた記事(92.4.9号〜94.7.24号)を漁り、当時の経緯について調べようと思った次第です。しかし、正確にその所在を知ることはできませんでした。というのは、連載記事のほとんどが(見事に!)切り抜かれていたからです。
当時のストリートファッションに関する資料は散逸してしまっているのが現状で、まとめて調査するには労を要するのですが、こうした貴重な資料の紛失は非常に残念なものです。
もはや当時実際に通っていた人にしかわからない場所になりつつある、と言ってしまっても過言ではないでしょう。
そもそも、裏原系の「裏」とは表参道というメインストリートに対する「裏」であったり、60年代から原宿文化の拠点であったセントラルアパートに対する「裏」であったりするのですが、ようするに、原宿のメインストリームに対する「裏」というニュアンスがそこにはありました。それは、ハイブランドに対するストリートブランド、奇抜な装飾性に対するシンプルなカジュアルさ、トータルコーディネートに対するレイヤードミックスもしくは着崩し、といった意味合いも含みます。
しかし、96年のセントラルアパートの解体、原宿駅前のテント村の撤退に始まり、98年のホコ天の廃止など、これまで原宿の「表」舞台を形成していたものが90年代終わりに次々と消失し、文化的な磁場が大きく変化していきます。
「裏原宿」という言葉がメディア上で使われるようになるのは95年頃からですが、それからわずか数年の間に、裏原系は「表」=メインストリームを喪失したサブでもカウンターでもないカルチャーとなっていったのです。
それを象徴していたのが、やはりノーウェアでして、文字通り原宿という場所性の喪失を示唆しているようでもあったノーウェアは、リニューアル、移転、姉妹店オープンを経て(たぶん)、99年になると原宿を離れ、青山に移転してしまいます。
ちなみに、僕が通ったことがあるのはこの青山のノーウェアで、今思えば、原宿ではない場所で「裏原宿」を間接的に体験していったような感じがあります。
裏原系は、しばしば「特徴なきスタイル」と言われたりもしますが、それは、着用者の固有性(着る人自体のかっこよさによって成立するスタイル、◯◯着という付加価値)、セレクションとスタイリングのセンス(多様なジャンルを横断するサンプリング的なレイヤード、あるいはマニアックな収集)、小さなコミュニティ内での価値の共有(一見すればどれも同じように見えるマイナーなレアもの)、「いま-ここ」という一回性(当事者であることの重要性)によって成立していたカルチャーであったからでしょう。
(続く)