誰にでも青春時代を思い出すアイテムというものがあると思う。
僕にとってその1つが「モッズパーカー(コート)」である。
あの頃のヒーローは、モッズパーカーを着て歌うオアシスのリアム・ギャラガーで、仮面ライダーの変身ベルトのように、身に着けたら強くなれるような気がしたのだ。
と言うほど大げさではないのだけれど、少なくとも、「D’you Know What I Mean?」という問いかけに頷くことができる気がしたのは確かだ。
結局、「モッズパーカー」を初めて入手したのは大学2年になってからのことである。
入り組んだ道が連なる下北沢の街をよくも分からず徘徊し、何となく入った店で軍物のコートを買った。
古着特有の甘ったるい匂いと、随所に残る使い古された痕跡とに、嗅いだことのない異国の空気を感じ、そのコートには「本物」の時間が染み込んでいるんだろうなと思った。
高速バスと電車を乗り継いでようやく辿り着いた音楽の街で買ったという体験も相まってのことかもしれない。この瞬間を逃したら二度と手に入れることのできない特別な一着のようにさえ感じられた。
もちろんそんなことはなく、傍から見れば何の変哲もないコートなのだけれど、そんな服との出会いというのは大切だ。
隣の芝生は青いとはよく言ったもので、行ったことのない国や街で呼吸される空気は、きっと今いる場所よりも新鮮で濃厚な味がするんだろうなぁと思っていたのはいつの頃までだろうか。
まだ吸ったことのない空気を味わいたくて、夢中になって洋楽を聴き、洋画を観、海外小説を貪り読んだ。
僕にとって、服を着るという行為もその1つだったりする。
モッズパーカーを手に入れるまでにいささか時間がかかったのには一応理由がある。
高校生の頃、テレビで『踊る大走査線』が放映されていて、織田裕二演じる青島刑事がヒューストンのモッズパーカーを着て登場した。
それを観たとき、これまで遠くにぼんやりとあったものが、ものすごく身近なものとして露になり、何となくチープに思えてしまったのだ。ようするに、自分だけの特別と思い込んでいたものが、思わず人気になってしまったときに感じるあれである。
とは言っても、苦悩しながらも現場を奔走する青島刑事はいつもかっこよく、その姿にモッズパーカーはとてもよく似合っていた。
ご存知の通り、モッズパーカーというアイテムは、元々はアメリカ陸軍の防寒着として開発された「M-51」と呼ばれるコートである。1951年に製造されたからそう名付けられているわけだが、それから7、8年後のイギリスで、「モッズ」と呼ばれる若者たちが着始めたことによって、「モッズパーカー」と呼ばれるに至る。
ご自慢のイタリア製スーツが、乗り回すヴェスパの砂塵によって汚れてしまうことを防ぐ目的で、彼らはそのコートを羽織った。
映画『さらば青春の光』にはそうした若者たちが登場する。広く知られているモッズ像だろう。
ただ、その若者たちのなかには、スーツなんか着ないで、シャツやトレーナーの上から乱雑に羽織るモッズ青年たちもいる。後に「ハード・モッズ」と呼ばれる若者たちである。
本を読んだりするなかで、モッズという現象のなかにも、いろんな若者たちがいることを知った。
仕事にやりがいを見出せず、両親のような大人にはなりたくなく、かといって夢や目標もなく、恋人ともうまくいかず、憧れていたヒーローに幻滅し、ヴェスパに乗って崖から飛び立つこともできない苦悩する若者の姿に、「カウンターカルチャー」と言うものの意味についても考えさせられた。
もしかしたら、青島刑事もそんな葛藤する若者の1人として描かれているのではないだろうか。
彼が「モッズパーカー」を着ているのは、組織や権力に対して抵抗する若者像といったものの他に、「現場」で繰り広げられる群像劇という意味合いが込められているのではないだろうかとふと思った。
事件は現場で起こる、のである。
そう思うと、一時期チープに思われたモッズコートも、また青々と輝いてみえた。
と言うほど大げさではないのだけれど、例えば、『東のエデン』の滝沢朗が、『ボーイズオンザラン』の田西敏行が、『おやすみプンプン』の関真澄がモッズパーカーを着ているのにもそんな理由があるのかなと思う。
彼らは不特定多数の若者ではないのだ。
「モッズパーカー(コート)」という名称は、昨今ではミリタリーっぽいカーキのコート全般を指すものとして何となく使われている節がある。いろんなブランドからM-51っぽい(なかにはM-51っぽくもない)デザインのコートが量産され、モッズパーカーと呼ばれて販売されている。
別に「それはモッズパーカーじゃないよ」と言いたいわけではない。
ただ、かたちとしてだけでなく、アイテムと共に受け継がれていく物語のようなものがあってもいいと思うのだ。
中学3年生の頃、学年集会である先生が「春はなぜ青いのか」という話をしてくれたことがある。
けれど、僕はなぜかその理由を聞き逃してしまった。
知ってしまったら、何かが終わってしまうような気がして、ふと耳を遠ざけたのかもしれない。
『さらば青春の光』のラストに登場するブライトンの海が、永遠に青いままであってほしかったのだろう。