岡本順氏が2002年にパリで設立したブランドJUN OKAMOTO。文化服装学院卒業後、パリのstudio bercot(ステュディオ・ベルソー)に入学。alexandre matthieu(アレキサンドル・マチュー)のアシスタントを経て独立。2008A/Wより障害を持った方たちの織る『さをり織り』や、障害を持った方たちの描く絵とのコラボレーションラインを始め、2010S/SよりJUNOKAMOTO BLUEとして立ち上げる。
そして2010年より拠点を日本に移しコレクションを展開しており、2011年6月にはJUN OKAMOTOのパターンを使ったセミオーダーラインwallflower by jun okamotoが初のショップとしてデザイナー自身の故郷でもある熊本にオープン。また2011年12月には日本初のファッションを応援するコミュニティ型マイクロファンド「FIGHT FASHION FUND by PARCO」の出資先候補デザイナーに選ばれ注目を集める岡本順氏に、話を伺った。
→JUN OKAMOTO 2012 S/S Collection
―今はどこを拠点にされているのですか?
東京と熊本がメインです。サンプルなどは熊本で作っていますし、だいだい年の半分は熊本にいると思います。
―熊本といえば評判の良いセレクトショップが多いと聞きます。それに海外のブランドを持ってくることも早いと。
そうかもしれないですね。ただ街にはあまりおしゃれな人が溢れているという感じではありません。「いいものは置いてあるのだけれど、買っても着る暇や機会がないんだ」と熊本のあるショップの店員の方が教えてくれました。俯瞰してみると変わった街だと思います。
―高校までは熊本で過ごされたのですか?
そうですね。高校は普通科で軟式テニスをしていました。
―イメージにぴったりですね。
そうですか。笑
硬式があればしたかったのですが、その学校には硬式テニスがなかったので。
―ご実家はオーダーメイドの婦人服屋さんをされていますよね。
親をデザイナーだという認識はありましたが働いてる姿を直接見ていた訳ではありません。ただ今の自分があるのはやはり親の影響が大きいと思います。例えば親が教師であれば教師になりたいと思うことはよくあることだと思いますし、それと同じでデザイナーという職業を幼少時から知りえたという経験は今の自分には欠かせないものだったと思います。
―ご実家の服を着ることもあったのですか?
婦人服のみの取り扱いなのでそれは無かったです。今では考えられない話ですが、1着分の生地代だけで50万円以上のものなんて普通にあったみたいです。出来上がりで100万円とか。
―オーダーメイドとはオートクチュールのようなものなのでしょうか?
生地を選んで買って、自分の体型に合うように仕立てるというオーダーメイドのものだったので一般に言われるオートクチュールとは異なります。オーダーメイドは形がある程度決まっていてそのフォルムの中で選んだり、合わせたりという具合で仕立てていきます。
―ファッションに目覚めたのはいつ頃だったんでしょうか?
着ることに関して言えば高校生くらいだと思います。その頃は主にアメカジや古着を着ていました。
―高校卒業後は文化服装学院に進学されましたが。
実は普通の大学も受けていたんです。あまり将来のことも考えていなく、東京に行くことだけは決めていて何となく大学へと思っていました。それで行こうと思っていた大学に落ちてしまって、文化に行こうか、行くならデザイナーを目指そうと思ってアパレルデザイン科に進み3年間通いました。
―美大を志望されていたのですか?
いえ普通の4年制大学です。経済学部とか経営学部とか。大学に行って遊びたいという想
いがありましたから(笑)。
でも今考えると、大学というところはあまりに将来の選択肢が多い、一方専門学校というところは将来の展望が絞られる。だからすんなりとデザイナーになろうと思えましたし、集中して取り組むことが出来たのだと思います。
―パリ行きは文化の1年生のときに決意されたそうですね
研修旅行が1年生の時にあって、それでパリに行ったときに「ここに住みたい」と思ってしまったんです。文化を決めた時もそうですけど、良く言えば直感を信じるというか、あまり決めるときに深く考えないんですよね。専門学校を決める時も文化以外の学校は全く考えなかったし、パリもそんな感じで決めました。
―時期的にはセントマーチン勢が活躍していた頃だと思いますが
まだ1年生の時はガリアーノとかが出る前だったのですが、3年生のときにはマックイーンやガリアーノをはじめセントマ卒のデザイナー達がメインで活躍し始めていたのでロンドンかなと悩む時期もありました。でも結局そのままパリに行くことを選択しました。やはりパリの揺るがない文化的な歴史の重さの中に暮らしてみたいという事にはかないませんでした。
―パリのstudio bercotではどのようなことを学ばれたのですか?
自分がいた時代は今とは違い、学内で何か学ぶというより外で学んできなさいというようなスタンスで、ストイックな雰囲気ではなかったですね。フランス人自体まじめに教えるということが苦手ということがあるようにも思います。結果出来上がったものが何か格好よければいいみたいな感じで、先生がダサいと言えば終わりという学校でした。
―先生のそういった評価に納得することはできたのですか?
自分の作品は先生方に評価されることが多かったのであまりそういうことはなかったです。bercotでおもしろいなと思ったことがあるのですが、先生方は学生自身の服装を見るということです。その学生の服装がダサければダメで、服装を素敵と褒められる学生は評価も高かった。ファッションという世界のリアルな部分に即した現場だなと感じました。ぼさぼさの頭、ジャージでという人がどんなにちゃんとした絵を描いたとしても評価されなかったりというのは、あまり日本では考えられない環境ではないかと思います。他にもクロッキーの時間があってモデルの女の子を描いていたら「ジュン、全然可愛くない。実物より可愛く描かなくてどうする」と先生に注意されて。美意識の違いのようなものを感じました。
―日本とパリでの学びで違いはどのような所にありますか?
やはりパリは、というかうちの学校の場合ですが、テクニックより見た目だという一言に尽きるかもしれないです。