Interview

JUN OKAMOTO 時代に寄り添うクリエーション 2/4

同じことを継続してやり続けている人たちがいるから若い人たちがショーに影響され、実際ショーをやることになる、世界中のジャーナリストやバイヤーが、新しいスターが現れるかもしれないと夢を見れる

→JUN OKAMOTO 時代に寄り添うクリエーション 1/4

―パリではalexandre matthieuのアシスタントを務めています。なぜalexandre matthieuを選んだのですか?

単純にその当時かっこいいなと思ったブランドがalexandre matthieuだったんです。

―当時はすごく話題のブランドでしたね。

BJORK(ビョーク)が着ているのをみて衝撃を受けて。それでたまたまパーティーでalexとmatthieuに会って、「働かせてください」と話しかけたら、「じゃあ来なよ」と言ってくれてそのまま働くようになりました。

―そこではどのような仕事を任されていたのですか?

メインの仕事はパターンでした。そこでパターンに対する考え方が180度変わりました。理屈も理由もなく、本当に適当に組み合わせていくんですよね。パターンをまじめに勉強していれば不可能な指示内容ばかりですし、パターンの形もめちゃくちゃでした。それでも出来上がると美しいラインに仕上がるんです。

―言語の違いで苦労はされませんでしたか?

話す内容は服に関してのことなので、特に苦労ということはなかったと思います。アトリエもフランス語でしたが何とかなりましたね。

―alexandre matthieu時代にはショーに携わることもあったんじゃないですか?

ショーの仕事も手伝いました。モデルも20人くらいは使っていて、ちゃんとしたショーをしていました。当時はパリ全体でalexandre matthieuを盛り上げようとしていた雰囲気もあった。Gaspard Yurkievich(ギャスパー・ユルケヴィッチ)も同時期に注目されていましたし、JEREMY SCOTT(ジェレミースコット)も騒がれ始めていました。

―当時は日本人の海外留学はまだ少なかったですよね?

そうですね。2000年代に入ってからはアントワープやセントマーチンをはじめ凄く増えた印象がありますが当時は少なかったかもしれません。

―独立はいつから意識されたのですか?

それはデザイナーを志した頃から考えていました。ただalexandre matthieuのところがすごく楽しかったのでこのまま居ようかなとも考えましたが。
独立は自然の流れというか、パリに住んでいたし住んでいたかったのでパリでやることにしました。8年間レディースだけを作って販売していました。最初の頃は手作りということもあってメンズには手を出せませんでした。

―そもそもなぜレディースウェアだったのでしょうか?

デザイナーってレディースを作るものだと勝手に思っていましたし、母親の影響もあると思います。それにデザイナーという職業を意識し始めた頃は「メンズデザイナー」という職業があまり確立されていなかったように思います。

―当時はどのようなお店で取り扱いがあったのですか?

最初は家に知り合いを招きライベートな感じで見てもらったりしていました。始めた当初に買い付けてくれた海外のお店は商品を渡してもお金を振り込んでもらえず、、、世界の厳しさを学びましたね。
数年してからRendezVous(ランデブー:合同展示会)でやるようになってからは海外のバイヤーの方にも買っていただけるようになりました。日本では当時WRとRICOさんが置いてくれていました。パリで見てもらって海外の店には少しずつ付けてもらえるようになりましたが日本は厳しかったですね。けど今考えてみたら、国内のバイヤーさんからしたら、日本人のデザイナーの作品は日本でも見れるからと思っていたのかもしれませんね。

―パリでやられていた頃はどのような評価を受けていたのですか?

パリのプレスの方からは日本っぽいと言われていました。けど日本の方からはヨーロッパっぽいねと言われる事が多かった気がします。ただ、パリで雑誌に載るときはJUN OKAMOTOのワンピースにchanelの靴を合わせるなど、今思うと夢のようなスタイリングをしてもらっていました。

―昔のルックと今を見比べるとかなり違った印象を受けます。写真の撮り方の違いもあると思いますが。

そうですね、パリの街で撮影しているというのは大きかったと思いますし、素材的にもシルクを多用するなど、日本メイドではあまりやらない様な事をやっていたかも知れません。

―独立してからパリでの8年間。正直なところ苦しくなかったですか?

きつかったです。売れないし、単純に「何でこんなことやってんだろう」と思うこともしばしばありました。けどそれは、営業が苦手でその面での努力不足が一番の原因だったと思います。けど、パリの街にはストレスを感じた事はありませんでした。

―それでも続けられたのはなぜでしょうか?

何より親が続けることに理解を示してくれたというのが大きいですね。親からしてみれば大成して欲しいという想いもあったと思います。それが無ければ継続することは不可能でした。

―パリで続ける理由はあったのですか?

ビジネスという面からみれば正直無かったです。ただパリにいて一度も日本に帰りたいと思ったことがないですし、本当にパリが自分に合っていたんだと思います。変な話ですがパリで自分が血を流しながらカフェでお茶していても恐らく周りの人はジロジロ見てこない。寛大というかあまり他人に関心が無いというか。それが自分には合っていて居心地が良かったんだと思います。

―そういう場所が他者性を必要とするファッションの中心というのは不思議な感じがしますね。

皆さんが想像するほどたくさんおしゃれな人はいないですよ(笑)。
パリには服も食べ物も高いか安いかしか選択肢がない、そうすると必然的におしゃれをできる人が限られます。そういう鬱屈した状況だからこそおしゃれができない若い人たちは頭で考えて、おもしろいものを作り上げていくのではないかと思います。

―コレクションを観ることもあったのですか?

bercot時代にはよく観に行きましたね。

―その中で影響を受けたデザイナーはいますか?

うーん。よくよく考えるとあまり覚えてないですね(笑)。 
JEREMY SCOTTの1stを観たことは記憶に残っています。でもやはりマルジェラを始めて観たときは感動しましたね。クリエーションに特に影響を及ぼしたということはないですが。それにコムデギャルソンのサッカーボールをモチーフにしたショーを観たときはすごいなと思いました。こういう風に同じことを継続してやり続けている人たちがいるから若い人たちがショーに影響され、実際ショーをやることになる、世界中のジャーナリストやバイヤーが、新しいスターが現れるかもしれないと夢を見れる。僕が住んでいた間だけでも24回くらいのコレクションがありました。先にあげたブランドはその24回、全てパリコレに参加していたと思います、そう思うとやり続けているという姿勢には計り知れないくらい影響を受けていたと思います。

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