2、フリーターからサヴィルロウのカッターへ
「サヴィルロウで働く事が目的でロンドンに来て、数年後本当に働ける事になりました」
—鈴木さんの経歴、ファッションの目覚めなどについて教えてもらえますか?
僕はもともと、日本で大学を卒業してから、フリーターとして大阪のカラオケ屋で働いていたんですよ。
—そうなのですか。大学生になる以前には、ファッションに対する興味はなかったのですか?鈴木さんが中学生や高校生の頃は、ストリートファッションも盛んな頃だったかと思いますが。
全然なかったですね。大学に入って、周りに流されて、雑誌を買ったりし始めた感じですね。すごく虚栄心が強い子でした。
典型的なモラトリアム大学生だったので、そのときは将来やりたいこともなかったのですが、そのバイト先のカラオケ店の仲間が、色々なキャラクターがミックスされていてすごくおもしろかったんです。その中にファッションに詳しいやつがいて、彼の影響で僕もブランドものにお金を費やすようになりました。グッチとか、ジルサンダーとか、、、当時はコレ着ていればいいんだろう的な発想だったと思います。服に着られていましたね。それで御堂筋を闊歩して満足していました。
—いきなりハイブランドから入ったのですね。そこから、どのようにスーツやテーラリングに興味を持つようになったのですか?
その頃は、ファッション自体に興味はありましたが、商品を買う事、着る事にだけ、でした。必死にバイトして、そのお金で3回払いとかでずっと買い物していました。今思うと恥ずかしくて、後悔もあるんですけどね。
でもそういう服がすぐによれて着れなくなったりする事が多くて、何故こんなに高いのにすぐダメになってしまうのだろうって思い始めて、多少服の中身、構造などに興味を持ち始めました。
そこで落合正勝さんとか、中野香織さんという人たちがスーツについて本を書かれていたので、はじめはまだ虚栄心で、そういううんちくを語りたい、という気持ちがあって読み始めました。
そうしているうちに、当時は誰が書いている本というのも知らなかったのですが、いつのまにかハマっていったんです。僕は熱しやすく冷めやすいタイプだったので、どんなこともあまり続いた事がなかったのですが、次第にファッション辞典とかも買い出してずっと読んでいました。実家にはそのような本が100冊くらいあるのではないかと思います。
次第に、買う事よりも読む事に夢中になって、当時から何となく、スーツには何か不思議なパワーがあるなと潜在的には感じていたので、本場のイギリス、サヴィルロウはどのようなところだろうとリサーチし始めました。
以前からおかんには留学しろと言われていたというのもあって、大学を卒業して1年半ほどカラオケ店やコンビニでバイトしたフリーター生活の後、イギリスのイーストボーンというところに3ヶ月留学することになりました。
—その頃はもう服を買うよりも、完全にクリエイションのほうに興味が向かっていたのですか?
大学を卒業してからは、あまり服を買う事なく、バイトして本を読んで、という生活でしたので、つくる事に興味が向かっていたのだと思います。
—ハイブランドからファッションに入って、でもクリエイションへの興味はトレンドやモードと言ったものではなく、スーツの仕組み、構造に向かったのですね。
その時はスーツの構造とか、テクニカルな部分への興味が強くて、デザインへの興味まだなかったです。クラシックが大好きで、デザインは必要ないと思っていました。
—そしてまずは3ヶ月間留学されたのですね。そこからどのようにしてLCFに進学する事になったのですか?
その3ヶ月の留学のときに、無理矢理LCFに押し掛けたんです。エージェントも通さず、3枚びっしり書いたステートメントを持って、カタコトの英語話しながらアピールしました。そしたら入れてやる、と。
—そこでもう入学が決まったのですか?
そうです。一番下のサーティフィケイトのコースでしたから。テーラリングのコースだったので、ドローイングなどのスキルも必要なかったですし、ポートフォリオも何もなく、熱意だけで入る事ができました。
—そのテーラリングのコースでは入学後、どのようなことを学ばれたのですか?
ハンドクラフトテーラリング、という名前のコースで、1年目は手縫いなど手作業のことを習って、2年目は工場に出したりマシーンを使って服をつくる方法を習いました。
—そこから、BA(学士課程)のファッションデザイン科に編入されたと思うのですが、それはどうしてですか?
もともと、留学には親のサポートも必要だったので、3年間という期限付きだったんです。
ですので、はじめのコースで2年学んだ後、3年目はイタリアにあるテーラリングのコースに進学して留学生活を終えようと思っていたのですが、その希望していたコースが定員割れで急に開催されなくなってしまったんです。
それでどうしようかと路頭に迷っていて、仕方ないので日本に帰るまでにパターンのコースでもやろうかと思って、面接を受けにいきました。その面接で、面接官が2人いたのですが、そのうちの一人がAlan Cannon Jonesという方で、今の僕の恩師にあたる人でした。その時彼に、「デザインをやってみないか、君だったらおもしろいものつくれると思うよ」と言われたんです。
—もっとファッションよりのことをしてみないか、ということですね。
そういうことです。おそらく、僕がどれだけ服が好きかという事が伝わったのかなと思います。1年目は週末とかずっとBerwick streetの生地屋の片隅でおっちゃんに色々聞きながら、生地の勉強をしたりしていていたのですが、それをまとめてポートフォリオとして面接でも見せたので。
彼はファッション・テクノロジーというBAコースのメンズウェアのトップだったので、引き抜きというか、彼が全体のトップの方にも連絡して「こういう生徒がいて編入させたいのだけど」と話してくれて、それでOKをもらいました。
僕はそのコースがどういうものなのかもよくわかっていなかったので、合格はもらったのですが少し返事を待ってもらいました。その出来事が当時すごくショッキングで、飯ものどに通らなかったのを覚えています。そういう編入の前例もなかったようですし。
でも色々考えてみたら、ちょうど進路をどうしようかと迷っていたところでしたし、BAに編入して卒業できればワークパーミットを得る条件も満たす事ができるので、将来にも繋がるかなと思って、進学する事にしました。
—そこまで評価してもらって、勿論嬉しかったとは思うのですが、その時はまだデザイン、ファッション的なアプローチにはそこまで興味を持っていなかったのですか?
その面接を受けた頃は、あまりありませんでした。ただ、何かをつくりたいという気持ちは沸々と湧いている状態でした。
—そこでBAに編入されて、1年かけて卒業コレクションを製作されたのですね。そのBAの卒業コレクションではどのような作品を制作されたのですか?今回のMAのものとは全く違うものでしたか?
BAの頃からテクスチャーには注力していて、パッチワークも使ったのですが、今見返すとまぁ仕上がりは普通ですね。この時は、「ツイーディッシモ(ツイード+イッシモ)」ということで、ツイードをより強くしたものをつくりました。洗いをかけたりと工夫しているのですが、パッと見は普通だと思います。
でもオプティカルアートの要素も、この頃からありますし、MAのコレクションのベースにもなっているかもしれませんね。やっぱり好きなテクスチャーやテクニックを使っていたので。
—そのBAコレクションの反響はどうでしたか?
よかったですよ。プレスショーにも選ばれましたし、色々な雑誌にも掲載していただきました。他のショーの出演など、受けられるオファーは選ばず全て受けました。
—BA卒業時はMAにそのまま進学するとこは考えていなかったのですか?
考えていなかったというか、金銭的な問題もあったので選択肢にはありませんでした。
今こうやって思い起こせば、全て行き当たりばったりでしたが、本当にツいていたなと思います。いつ進路がぷつっと切れてしまってもおかしくなかったですが、結果的にやりたいことは全てさせてもらってきましたから。もともとここ、サヴィルロウで働く事が目的でロンドンに来て、数年後本当に働ける事になりましたから。
—BA卒業後、どのようにここヘンリープールで働く事になったのですか?
卒業前、まだ学生のときに、サヴィルロウ周辺の全てのお店に自分のCVを渡して回ったんです。そして、アクアスキュータムからカッターではなく販売員が欲しいという電話をもらって、販売員でも何でも勉強だなと思ってパートタイムで働き始めました。
BAコレクションが終わってからは、お金も使い果たしてしまっていたので、そこでほぼフルタイムで働いていました。そんな時に、先ほどお話ししたAlanから、ヘンリープールに日本人のお客さんが来ているので通訳として行ってみないかという電話をもらったんです。他の女の子にも声をかけていたらしいのですが、その子に電話して、「オレに行かせてくれ」って頼んで僕が行きました。初めて入った時は畏れ多かったのですが、実はその時にAlanが僕のCVやポートフォリオもヘンリープールに送ってくれていたみたいで、現在の専務、7代目のSimonとお話しができて、じゃぁちょっとやってみるかということになりました。
—はじめはどのような仕事をされていたのですか?ヘンリープールのようなお店では、一般的な販売員はいないですよね?
最近ネクタイなどのセールスもあるので、ヘンリープールでも販売専用の方を一人雇っているのですが、基本的に販売員はカッターです。
働き始めた時は、トリマーといって、カットされた生地に芯地や裏地、ボタンなどを全部まとめてテーラーに渡す仕事をしていました。
数週間そのトリマーをした後、僕も結構厚かましいので、どんどん質問したりしていたのですが、そうしているうちにカッターもやり始めました。はじめ3ヶ月は研修ということだったのですが、無視してどんどん色々な事をさせてもらいました。はじめは無銭からスタートしましたが、何ヶ月かすると普通にお給料ももらえるようになって。そしてしばらくして、ワークパーミットも会社から申請してもらえて、それが通ったので、ずっと働く事ができるようになったのです。
現在では詳しく言うと、アンダーカッターという立場で、カッターである上司と一緒に働いています。生地をきったり、採寸をもらってパターンを切ったりといったことをしています。
—サヴィルロウで、カッターとして働く面白みは何ですか?
人の体は三者三様で、お客様の国籍も様々なので色々な体型に合わせた違ったパターンの切り方が学べるところです。またビスポークテーラーの中では大きい会社なので、抱えているテーラーの数も多く、カッティングと同様に色々な人から様々な技術を学ぶ事が出来ます。それは作る方でも同じ事が言えると思います。
また伝統的で歴史のある古いコスチュームなどを間近で見ることができるので、よくデザインするときのインスピレーションになりますね。
あとはイギリス人に囲まれて仕事する事もなかなか楽しいです。はじめはなじむのに少し時間がかかりましたが、今はみんなと和気あいあいとやってます。もちろん、これは国民性や文化的な背景の違いがあるからなのでしょうが,もし彼らが日本人であってもあまり変わらないような気がしますね。
—サヴィルロウで働くという目標も実現されて、LCFを卒業されてから数年間はすごく充実した環境で働かれていたと思うのですが、どうしてその後RCAに進学することにされたのですか?
それはやはり、デザインに興味をもったからですね。テーラリングを数年やってきて、勿論今でも学ぶ事は沢山あるのですが、同時に自分の服に需要をつくりたいという思いもありました。
RCA在学中には、ゴールデンシアーズという、イギリス、ロンドンで行われるテーラリングを学んでいる学生やアプレンティスを対象に行われるコンテストにも出品したりもしたのですが、それ以降はより自分の服に需要をつくりたいという想いが強かったです。
—そのテーラリングのコンペティションはどのようなものだったのですか?ITSのようなファッションのものとは全く異なるのですか?
審査基準が2段階あって、はじめはガーメントやデザイン画などを提出してから、まずテクニカルな部分を審査されます。サヴィルロウのカッターが審査員となり、ボタンホールやスリーブやラペルなどを技術的な部分を細かくチェックします。それを通過したらキャットウォークのショーができて、この前だと外部から招かれたジェレミー・ハケット、パトリック・グラントなどによってスタイリングとデザインがジャッジされて、先ほどの技術50%、デザインやスタイリング50%で総合評価されるんです。
ですが、そこには実はすごく政治的なものもあって、まず学生だと勝つのは難しく2大会連続で同じテーラーに務めている人が受賞した例はありません。これはもちろん学生の作品に比べてテーラーで働いている人の作品の方が優れているという事実もあるとは思います。学生や丁稚奉公の人も皆応募できて、応募が受理されると番号がふられて名前などもわからないはずなのですが、ファッションの業界とは違い規模が小さいので、やっぱり応募者についてわかるのだと思います。
僕の場合は、ここヘンリープールで働きながら、同時にRCAにも行っているという状況で、しかも前回ヘンリープールの人が大賞を穫っていたんですよ。ですので、一位は無理かなと思っていましたし、 大賞をとれず悔しかったので勝手にこう解釈しているところもあります。
—そのときの鈴木さんの作品を見てみると、テーラーの大会といっても、斬新なデザインが結構入っているような気がしますね。
自分でいうのもおかしいかもしれませんが、その回では僕の作品が一番デザインが入っていて、見た目も違っていたと思います。デザイン性のない本当にシンプルなスーツを出している人も多かったですし。
結局ぼくはシルバーシアーズといって2位に選んでいただいて、過去に日本人で選ばれた方も誰もいなかったので、行けるところまではいけたかなとは感じました。一位になったのは中国人の方でしたが、僕も全然負けていなかったと思いますし。
—そのようにテーラリングでの結果も得て、ある程度テーラリングにも満足できて、今はもっとデザインをしたいと。
需要をつくりたいんです。ここでの仕事はどうしても同じ作業の繰り返しが多くなってしまいますし、このままずっとやっていくのかなと考えると、僕はもっと国際的に活動したいと思っていたので。
—もっと自分の色を出したい、と。
まさにそうですね。自分がつくったもので、新しい需要をつくりたい。
メンズウェアの面白いところは、ルールとかパラメーターの中で作業していくことで、スーツはあまり崩せない部分はあるものなのですが、そのスーツを少しずつ発展させていきたいというか、難しい事ですがそこが魅力ですよね。
150年前からスーツはほとんど変わっていないですし、変えるのはすごく難しいと思うのですが、そこがまた面白さでもあります。そこがウィメンズウェアとの大きな違いだと思いますし、変えてみたいという想いが湧いて来たんですよね、ここで作業をしているうちに。
—勿論、こういう伝統のあるテーラーで働くのは誰しもできることではないと思うのですが、やはり会社の1カッターとして働くのではなく、それ以上の事がしたくなってきたということですね。
入ったら入ったで、欲が出てきましたね。働き始めた頃は、やはり基礎は学びたいという気持ちはあったので、今までして来た事は忘れて、日中はカッターとして働いて、その後夜は下の作業場でテーラーと一緒にコートをつくったりして、基礎は1から学びました。
その頃は独立してテーラーをオープンして、日本人としてサヴィルロウの一カッターとしてやりたいという想いだったのですが、次第にデザインへの興味も強くなりましたし、それにやはり、どうしても飛び越えられない壁、というものにもぶちあたりまして。
—それは具体的にどういったことですか?
やはりサヴィルロウで働くほとんどの方がイギリス人ですし、会話やコミュニケーションに全く問題がなくても、口を開けばやはりネイティブのイギリス人でないということはわかってしまいますので、そこでどうしてもお客さんに信頼してもらえなかったりします。
顔、容姿、言葉、どれをとっても外人なので、その事によってセールスを逃したり、お客様に不安感を与えたりという事は多々ありました。保守的なお客様が多い中、気さくに僕の対応に快く応じてくれる方もいましたが、、、
いつも例としてあげるのが、日本の呉服屋であったりその国の伝統的な高級な物を扱う場所では、やはり現地人が接客するのが一番なのだということです。呉服屋で外国人が片言で着物の事などを語られても、現地人と比較すると説得力もありませんし、やはりこういう場所のお客様は保守的ですし、特に観光客の方はネイティブに接客されたいでしょう。
—確かにそれは、超えるのが難しい壁ですね。でも、そのような壁があって、他の選択肢も考える機会ができたと。
そうです、それで学校に戻って勉強してみるのもいいのかなと思って進学しました。今ではよかったと思います。
それにずっとRCAには興味があったんです。僕がBAを卒業した年にちょうどアイター・スロープっていうデザイナーがRCAで卒業コレクションを発表して、ITSの作品も相当切れていて。
—今回ITSではそのアイターも審査員の一人でしたよね。
そうです。聞きたい事色々会ったのに少ししか話せなかったのですが、、、
卒業当時、学生の作品なども取り扱っているインターナショナルテキスタイルという業界紙を友達から見せられて、こういうコンペもあるよと教えてもらって、その時アイターの作品のクオリティの高さに度肝を抜かれたんです。僕の作品なんて全然カスだなって思いました。
そこで色々と彼について調べていったら、絵も個性的でかっこいいですし、すごいなと。彼は好きなデザイナーの一人ですね。作品をつくるプロセスもおもしろいですし。
Ichiro Suzuki
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