Interview

坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 5/5

ファッションという言葉は元々は流行という意味。時代性のあるファッションは必要かどうかという根底に戻っていくと、僕は時代性がないとファッションではないと思う。

→坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 1/5
→坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 2/5
→坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 3/5
→坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 4/5

蘆田(以下A):ファッションショ-に関して、僕が最近よく思うことはファッションショーが“繰り返しに耐え得るかどうか”ということ。例えば、演劇やミュージシャンのライブは全く同じ演目、全く同じセットリストであっても、好きな人は本当に楽しめる。同じシーズンのファッションショーを2回見た時にそのブランドを好きな人が本当に楽しめるかどうか、それをこれからショーを作っていく時に考えるべきなのではないでしょうか。そういう意味では、坂部さんやリトゥンがやったショー、それは繰り返しに耐え得ると思うんですよ。だからその点では評価している。ただモデルに着せて、「今シーズンこれなんだね、新しいものが見れて良かった」で終わるのはどうなのかと思う。

坂部(以下M):蘆田さんは耐え得るものの方が良いと思うということですか。

A:僕の意見としてはそうです。もしくは耐え得るものではなくても瞬発力みたいなものがあるのであればそれはそれで良いと思います。それはエンターテインメント性であったり。
僕は時代性が必要かどうかと問われたらどちらでも良いと思うんです。「ダブルスタンダードじゃないの?」と言われるかもしれないのですが一回性の強さでも良いと思いますし。

M:時代性のあるファッションは必要かどうかっていう根底に戻っていくと、僕は時代がないとファッションじゃないと思う。

A:僕はなくてもいいと思います。ない方が良いということではなく、なくても良い。

M:なくても良いという考えは僕の中で存在していない。ファッションという言葉は元々は流行という意味。そこは無視しても良いということですか?

A:無視することも出来ると思います。

M:流行ではない可能性もあるということですか?

A:そうですね。例えば単純な話、20年前の服を今この場で着ていたとしても別に違和感がないですよね。

M:それは時代感が合った、20年前の物と今がリンクしたからということじゃないですか?
僕と蘆田さんの一番の違いは僕はファッションには時代感がなければ駄目だと思っている。時代感がなければ、ファッションは出来ないと思う。時代感がないということは存在しない。

A:坂部さんは服そのものの美しさはあまり考えないのですか?例えば、今坂部さんがヴィオネの服を見たとする。

M:”美しさ”という評価であれば、絶対的なものがあります。ただ僕にとって美しさとファッションは一緒ではない。美しさで言ったら時代感がなくても良いというのは僕も賛成です。でも美しさ=ファッションではない。ヨーロッパの歴史衣装ってもの凄く綺麗ですよね。今の僕たちが着ている服はその人達から見れば、こじき同然だと思うんです。エレガンスじゃないと言われて当然だと思う。ただあれがファッションかと問われたら、僕は今着るものじゃないと思っている。人は町で生活して、人と会って、生きている、その中で時代感がないものを着るのはおかしい。例えば、自分の友達の女の子が本物の歴史衣装を着て、それが美しかったとしても、「おかしいでしょ」って言ってしまう。それは美しさではなくて、時代感があっていない。極端な話その人がお城で過ごしていたり町に生きてなかったとしたら、良いと思う。今話をしている一般的なファッションからするとマックに行ったり、電車に乗ったり、コンビニに行く。そこで時代感を無視するファッションが存在するかと問われたら、それは難しいのではないかと思う。

A:坂部さんのファッションに対する考え方は良くわかる。勿論納得する部分もあるし、同意できる部分もある。ただ、ファッションという言葉そのものに対してもっといろんな捉え方があって良いと思うんですよ。twitterで今回の件で坂部さんが「ファッションの専門家のスタンダードは西谷さんの意見だよね」と言われたときに、「勝手にスタンダードを決めないで欲しい」って言ってましたよね。僕もそう思う、でもそれと同じように、「ファッションはこういうものだ」という考えも一義的にして欲しくないと思うんですね。

M:僕と同じ捉え方をしてもらいたいわけではないのですが、僕は時代感があるかないかでファッションが決まると思っています。

A:僕はそこがなくても良いと思っています。

M:ただそうは言っても、半年に1回の時代感は必要ないと思っている。例えば、コムデギャルソンは時代を無視してやってるとは思ってない。80年代のボロルック自体が時代感がないかあるかで言えば僕はあれは凄く時代感があると思う。でも蘆田さんはそう考えていないですよね。

A:僕はヨーロッパの文脈を無視したと思っています。

M:文脈を無視しても、時代感はあるってことですか?

A:時代感って表現が難しいですね。
そう言う意味では坂部さんのアントワープでの4年生の時のショー、あれはヨーロッパでは時代感があったんだと思います。でも、それを日本で見た時に時代感はないと思います。

M:ということは、時代感があるところでファッションは評価されるってことですか?

A:それは坂部さんの文脈ですよね。
コムデギャルソンが評価されたのは時代感があったからではなくそれを受けいられる土壌が少しずつ出来てきたからだと僕は思うんです。

M:ボロルックは時代を無視してたって思うんですか?

A:ヨーロッパの文脈ではそうだと思います。そういう意味では時代感がなかったのではないでしょうか。

M:僕は逆にあれが一番時代感があったと思っている。デザイナーは今のことではなく少し先のことをやっている。そこでわかってきたというのに、時代感がないって感覚が僕にはわからない。あれが伝わって、最終的に世界的標準のコミュニケーションになっているんです。そこに時代感がなかったと評価するのであればそれはおかしいと思う。

A:坂部さんの言う時代感は今のことを言ってるのでしょうか、それとも数年後の話をしてるのでしょうか?

M:今から派生する先のことです。100年後とか10年後とかでなく1年、2年先までの範囲。具体的にいつまでとかではないのですが今から2年後くらいまでの範囲だったら評価できると思うし、先見性があったってことは僕は評価するべきだと思っています。

A:先見性があることと、時代感があることは同じなのでしょうか?

M:僕の中では同じです。先見性がなくても、時代感があると蘆田さんは思いますか?

A:坂部さんが言う時代感は“今”を指していると思っていたんです。

M:“今”も当然入っている。僕はコミュニーションが取れないとファッションとして成り立たないというのはかなり近いところにあると思う。人とコミュニケーションを取れない服を着ている時点で、ファッションナブルではないと思う。

A:でもそういったものを着ているからこそ生まれるコミュニケーション、「なんでそんな変な服着ているんだよ」ってコミュニケーションも出来ますよね?

M:それはファッションとしてはありだと思う。ただそこで距離が出来ちゃってる人、そういう人はそれに対して時代感がないと思ってる人達、コミュニケーションが取れてない人達ですよね。そこでもコミュニケーションが取れていたとしたら時代感があると評価出来る。
多分僕と蘆田さんの大きな違いは時代感という言葉の捉え方が違うということ。例えば僕のコレクションが20471120に似てると思うところがあるというのは、蘆田さんから見れば理解出来る。僕がそうじゃないって言ってるのは蘆田さんと違う時代感で見ているから。話のズレの根底はそこにあるのかなって思う。
 今回は時間がなくなってしまったのですが一番いけなかったことは僕と蘆田さんが真剣に理解し合おうとしただけで読む側の人を考えていなかった話になってしまったということ。

A:正直平行線だった感はありますね。

M:今回が第一回で次回を半年後くらいにやりましょうか。
本当はもっとキャッチーな内容にしたかったし他に話したいこともあった。結果的に今回の話は凄く複雑でコアな話になってしまった。次回はこれだけは言っておかなければいけないこと、話す内容は決めた方がいいですね。

A:僕としてもデザイナーが考えてる事を聞ける機会は意義があることだし、大事な事、それはどんどんやっていかないといけないと思っている。さっきも言ったのですが僕がやりたいことは良いものを作ってる人をちゃんと残すこと。歴史にっていうのもそうだし、売上以外の部分でもそう。僕は今KCIにいるのですが、そこでは文化的なものとして、服を買ったり、集めたりしています。そういう残し方が日本でもっとあっても良いと思うんです。オランダやフランス、ベルギーもそうですが、ヨーロッパってそういうのが当たり前のこととして行われていますよね。保存が難しいということはあるかもしれないけど、そういうのがないよりは良い。保存が難しいと言っても、そういうのがあることによって保存に耐え得るってことをもう少し考える人が増えるかもしれない。

M:そうですね。本当は保存出来るけど、予算があり、日本においてのファッションの立ち位置が低いから、ヨーロッパよりもそういうことをするところが少ないのが現実ですね。

A:僕がコミット出来るのは批評というところだし、KCIが行う展覧会もある。でも売れる売れないの部分で評価があっても良いんですよ。「売れてるね、凄いね」って。ただそれとは別の評価があっても良いと思う。例えば何かの審査があったとして、デザイナーの人もいていいし、ジャーナリストや批評家がいてもいい、それだけではなく販売員がいてもいいと思う。いろんな見方があるしファッションってもっと自由で良いと思う。それに着れない服があってもいいと思う。ただ坂部さんがそれはファッションではないって立場なのもわかりますが、様々な可能性があっても良いと思うんですね。

M:その言い方はちょっとずるいですね。色んな可能性があっていいと僕も思ってますよ。ただそこまで広げてしまうと話が、、、仏教みたいな話で何でもOKになってしまう。そこは話の議論としてそこまで広げてしまうと難しくなってきてしまう。可能性の点で言えば僕もいっぱいあった方がいいと思っている。ただそれを前提に話をするとどんどん0に近づいて良い悪いで話が出来なくなってしまう。

A:こういった話、それこそファッションって何か?という話でもずっと出来るわけじゃないですか。でもそれを今までのファッションの人達は十分してこなかったように思う。そういうのはやっぱり議論として、デザイナーが考える事、批評家が考えること、ジャーナリストが考える事、歴史の研究者が考えること、もっと色々な意見が出てこないといけない。それが美術だったら、ずっとされてきましたよね。日本でファッションについて、ジャーナリスト以外の人で言ったら鷲田清一さんがいる。でも鷲田さんが一人で理論を言ってもやっぱり蚊帳の外感は否めない。もう少し色んな立場の人が話を出来る場、議論をする場って言うのが出来れば良いと思う。

M:それは僕も思います。ただデザイナーは批評家ではない。そこが残念なのは話が出来なくても素晴らしいデザイナーはいるということ。

A:その点で言うと僕はそういったデザイナーの助けにもなれたらなと思っているんです。喋るのが苦手で、良い物を作ってる人もいる、そういう人が言語化するのを手伝ったりもしたい。

M:僕は自分が思っていることをそれなりに言語化出来る。ただ凄く良いデザイナーだけどそれを言えない人が僕の周りにもいっぱいいます。

A:僕は批評がそういった人を評価するのはデザイナーの肩代わりではないですが、デザイナーの考えてること、違うことも入るけれども全て言語化していくってことだと思うんです。

M:まとまりましたね。次回に続くってことで。

A:はい。そうしましょう。

コメントは停止中です。