Interview

坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 3/5

評価の基準というのは凄く難しい。1シーズンだけを見て批評はされる。先を見据えた批評家がもっと出てこないといけない。総合点をちゃんと見るって凄く難しいと思う

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坂部(以下M):蘆田さんは売上の側面とクリエーションを分けて批評するという考えですか?

蘆田(以下A):僕の場合はそうです。

M:ではファッションの本質を批評するのに売上は関係ないと思いますか?

ファッションの本質を批評するという言葉はひっかかりますが、例えば音楽で浜崎あゆみやジャニーズ、AKBが売れている。でも売れているから良い音楽と言えるかといったら言えないですよね。それと同じような感じだと思うんです。

M:でも逆に言えば凄くクリエーションが良いのに、売上を度外視して評価しすぎると、消えてしまうデザイナーもいっぱいいますよね。
そういうデザイナーはクリエーション的には評価される。でも売り上げは全くだったりする。クリエーションの純度で言ったら、消えても良いって思ってる人たちの方がやりやすい。ただ消えても良いと思って、純度の高くなってる人を評価しすぎるというのは逆に言えば必死でクリエーションを残したいがために、生き残っている人たちの方の評価が低くなるということ。そうなるとこの人達の気持ちはどうなのかなって。やっぱりそこも評価されるべきだと思う。でも、そこまでしっかり見ると、売上は関係ないというのは難しい話になってくる。本当にクリエーションをキープしながらやってる若手を見るには、売上が関係ないとは言えなくなっていると思う。

A:例えば年商いくらとかそういうところではなく、デザイナーがいて受け手がいる、そこへどうやって届かせることが出来るか。ショーなり、写真なり、様々なプレゼンの仕方があり、最終的に服を届かせる。そこも一つのデザインだと思っている、そういう意味での評価。売れる、売れないだといくら売れたとかシャツ何枚売れたとかそういった話になってしまいますが、このやり方はプレゼンが凄く上手とかそういった評価の仕方は出来ると思います。例えば例が適切かどうかはわかりませんが、坂部さんと同じようなコンセプトで服を作ってる人がいるとする。坂部さんはでんぱ組とやることによってファッション以外の層にそれを届けることが出来、結果として売れたとする。でも同じようなコンセプトをもったもう一つのブランドは普通のファッションショーをやって、そんなに売れなかった。この場合はプレゼンのやり方を評価することが大事だと思います。結果として、売上に繋がったのは、プレゼンが良かったという事ですよね。

M:ただ、プレゼンが上手い、下手なだけではデザイナーは生きてはいけないですよね。

A:勿論そうだと思います。原因と結果が一つだけなんてそんな単純なことは言いませんし、例が適切かどうかも難しいところです。

M:評価の基準というのは凄く難しい。1シーズンだけを見て批評というものはされる。それは当然ファッションの仕組みなのですが、ただ先を見据えた批評家がもっと出てこないといけない。その1シーズンを乗り越えているデザイナーはいっぱいいるし、総合点をちゃんと見るって凄く難しいと思う。極端な例の話をすると、クリエーションのようなことをやってるけど、コピーをたくさんいれないと生き残れないとする。それで売るための物はコピー的な要素をいれる、でここは生き残った。でも、例えば純粋にクリエイションをして、コピーは絶対に許せないというクリエーターが結果として消えるとする。僕が評価出来るのはやっぱり生き残ったことだと思うんです。でもそれは汚いやり方。純粋に奇麗なクリエイションだけをして生き残れるというのはほとんどない。そこまで含めないとリアリティがない、それが今の時代。なので僕はそこも評価するべきなのではないかと思っている。ただそこを批評するのは凄く難しい。ファッション批評はバランスが凄く難しい職業だなって思う。色んな側面がありすぎて、批評するのが凄く難しい。どれかを評価すると、どれかを傷つけてしまう。

A:でもそれは美術でも同じことだと思います。

M:そうですね。でもファッションは美術よりも複雑だと思っています。僕はアートよりも、ファッションの方が評価が変わりやすいものと思っている。アートは先と後を通じて、今を表現するので論理的でコンセプチュアルの要素が強いと思う。ただ、ファッションはヒステリックさも必要で、その時の瞬発力とパワーでその瞬間しか感動を味わえてなかったりする。例えば1ヶ月後に見たら、「あれやっぱり嘘くさくない?」ってなったりもする。でも僕はそこがファッションの良いところでもあるというか、その瞬間に立ち会った瞬間はアートじゃ勝てない感動があると思う。そこの基準もファッション批評をやる方としては必要なのかなって。

A:以前、twitterで今評価されるデザイナーと30年後評価されるデザイナーが同じかどうか、という疑問を書いたことがあるのですが、それに対して坂部さんは「違う」と言いましたよね。でも、別のデザイナーでそれが同じであるべきと言う人もいました。

M:同じであるべきと言う考えはわかる。でも同じではないと言うのが現実的。

A:僕は歴史を作らなきゃいけないという言い方をしましたよね。でもそれは少し言い方が悪かったと思い直したのですが、一つの正しい歴史なんてものはない。歴史家が10人いれば、歴史は10個出来る。どれが正しいかって言うのは、基本的に言えないし、その人の見方での歴史が存在している。例えば80年以降の日本のファッション史を僕が書くのと、仮に坂部さんが書くとすると2人が書いたもので歴史に出てくるものは違いますよね。それは当然の事だし、どちらが良いか悪いか、どちらが正しいか正しくないかではないと思うんですね。例えば、20世紀のファッション史っていうものを書いたとしても、それは同じこと。でも何か資料が残っていれば、ヴィオネのように後から評価され直す人も出てくることがある。そこに何も残っていなければそのまま消えていくだけになってしまう。僕は資料があるというだけでもそれだけで絶対にプラスになると思うんです。それは今のデザイナーにとってもそうだと思っている。さっき坂部さんが生き残るか消えるかみたいな話をしていましたが、売上以外のところで、生き残る術というものがあっても僕は良いと思うんです。
例えば山縣さんはここのがっこうをやっている。そのような形でも良いだろうし、大学の先生をやりながら服を作る、そういうのでも良いと思う。服を売ってそのお金で生計をたてる、それ以外のオルタナティブなシステムを考えていけたらいいなって思っています。

M:僕もその意見には賛成ですがそれはてシステムとしてまだすごく難しい部分はあると思います。

A:勿論まだ成功してるわけではありません。でも例えば山縣さんみたいな人を誰も評価せず、仮にブランドが無くなってしまったとする。商売としてはうまくいかなかったかもしれないけど、山縣さんがやったことの功績はファッション界にとって凄く大きいことだと思う。そういったところは僕はきっちりと評価していきたい。批評というのも良いもの作っている人や面白いものを作ってる人がなぜ良いのかをきっちり言いたいっていうのが元々なんです。東京だけでも1シーズンにつき30ブランド以上はショーをやりますよね。僕がやりたいのはどのブランドが悪かった、どのブランドが良かったということではなく、僕の視点で見て良い物を作ってる人、面白いことをやってる人を残すこと。その為に批評をやりたいと思っている。ぬるいと言われるかもしれないですが、僕の場合は評価できない人は無視するしかないんですよね。上から目線の言い方になるかもしれないのですが、Aさんっていうデザイナーがいるとして、この人に才能がないって思ったら、その人に対して否定的なコメントをするのは批判のための批判になって、その人の才能を伸ばすことにはならないと思うんです。問題解決のための視点を提示するわけでも何でもなくなってしまう。だから僕は何も触れない。その人を評価する別の人がいればそれでいい。僕が誰かを評価するのであればその才能を伸ばすためか、売上以外のところ、例えば、展覧会みたいのかもしれないし、舞台衣装みたいなものかもしれない、その人を売上以外のところでちゃんとすくいあげていければ良いと思ってるんですね。
どちらが正しいというのはないのですが批評というものに対する考えが坂部さんとは少し違うと思うんです。でも、それでも、やっぱり共通点もあるし、目指してるところは一緒だと思うんですね。ファッションをもっと活性化させたいとか、面白くしたいとか、最終的な目的地は一緒。考えている事は半分くらい違ったとしても、共通するものもあると思うんです。

M:確かにそうですね。

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