2011年5月5日子供の日におよそ1年振りとなる山縣良和によるwrittenafterwardsのコレクションがVACANTで行われた。
今回のランウェイショーはwrittenafterwards collection♯05“神々のファッションショー”の神様たちが、今から一年後の地上のファッションショーを見るべく訪れたというコンセプトの下、ドレスコード:FOREVER FASHIONで身を纏う来場者の選ばれし者が、ランウェイを歩き、天使達が未来の写真を撮影、観客自らが発信する側に周るというものだった。またこの儀式とも呼べるショーに参加した来場者は神様達とこのショーに関しての口外をしないという契約(Contract with the gods)を結ばされた。
ファッションショーを見る(受信する)側から見られる(発信する)側へ発想の転換を図ったコレクションは面白い、新しい等との声が聞かれる中、デザイナー自らの洋服の提案がなかったことに関しての批判的な意見も少なくなかった。彼が今回提案した「ファッション」に関してショーに参加した=神様達と契約を結んだ会員達に今回のショーに関してのコメントを募った。
第一回目はジュエリーデザイナーの大久保氏、文筆家のコイシ氏、デザイナー/スタイリストの村田氏、そして山縣氏と共にwrittenafterwardsを立ち上げ2009年に辞任、現在はASEEDONCLOUDのデザイナーを務める玉井氏の4名のコメントを掲載している。
2011.5.5に原宿vacantで行われたwrittenafterwardsのショウ。
僕自身、他の聴衆同様に奇しくもその場でfreemaison WRITTENAFTERWARDSの会員になってしまったので、今回のショウの内容をここであまり詳しく記述することは控えることにする。
ただ、今回のリトゥンのショウはたくさんのことを我々に提示してくれたということだけははっきりと言っておきたい。
例えば、ファッションの根源的な楽しさである、服を着ることで自分が喜ぶこと、他者に自分のファッションを見せて喜ばせることを思い出させてくれた。
そして、ファッションデザイナーの仕事は服そのものを作ることだけではないということを実践してみせてくれた。
ネットを見渡してみると服がなかったことにたいへん不満を持っている方々もいらっしゃるようだけれど、はたしてそこに何の問題があるというのだろうか?
近年、ファッションと比較されることの多い建築界の話を例に挙げてみたい。
戦中・戦後の日本建築をリードした丹下健三への弔辞で磯崎新はこう述べている。
「建築することとは、単に街や建物を設計することではない、人々が生きているその場のすべて、社会、都市、国家にいたるまでを構想し、それを眼に見えるように組みたてることだ。これが、私たちが教えて頂いた<建築>の本義であります。」と。
建築家とファッションデザイナーの仕事はその物的スケールの違いから見ても異なる職種だが、人々の生活や人生と密接に関わるという意味では重なる部分も多くあるだろう。
丹下の言葉を引用するとすれば、人々が生きているその場を構想するということ、つまり今回リトゥンは服ではなくある種の空気感をプレゼンテーションしたのだ。閉塞感漂う世界に風穴(空白=VACANT)を空けるように。中心に穴があいた旗を作ったことがその意思を象徴している。
現代のように資本主義が極限まで進んだ社会では、消費者の顔や業界の暗黙のルールがちらつき、デザイナーは何をデザインすべきかという強迫観念に陥りがちである。しかしながら、リトゥンは“何をデザインするか”ではなく“デザインとは何か”という態度を選び、我々に提示してくれた。
それはデザイナーの山縣良和が日頃から口にする「自分の価値観を通して何かを表現する」ということにそのまま繋がる。
フリーメゾンの会員証のワッペンには家が描かれ、家の“左”隅の窓から覗いているのはMrs.Rei Kawakubo(配布された資料にそうある)だそうだ。
Mrs.Rei Kawakuboといえば、少年のように、であるが、今回ショウに登場した天使も皆少年だった。
宮崎駿が『紅の豚』のポルコ・ロッソに、『もののけ姫』のアシタカに自身を投影したように、あの天使は山縣良和の投影と考えていいだろう。それは2012S/Sを見つめる歴史の天使、か。
とはいえ、必ずしも演出として強度があったとは言えないショウの主役としての聴衆のファッション、新商品がほぼないという会社としては致命的な状況(もしくは準備している?)、またこの先このfreemaison形態の継続は可能なのか?など問題はいくつもある。
そして、新展開を迎えたwrittenafterwardsの未来がどうなるのか、
いずれにしても今後の彼らの活動を注意深く見続けていきたい。
大久保 俊 / SHUN OKUBOデザイナー
360度を取り込もうとするけれど、
その振り子の糸が極めて短い(よって、描かれる円も小さいw)
のがよし君のショウの
なんというか、愛らしさというか、
ヘタレ加減のおもしろさというか、カルト的なよさだと思います。
まず、私自身が、よしくんにあやまらないといけないのは、ドレスコード
“forever fashion”を、あまりちゃんと考えなかったこと。
ショウのある程度のシナリオが、インビを頂いた時点で読めていたのと、
疲れていたせいもあって、今日はショーだーわくわくッという気持ちよりも、
あ、時間だ、いかなきゃっ!っていうのの方が強くて、私自身、
子供心というものを
あまり重要視していない為かも知れないけれど、
ヒトの子供心(と、母性w)に依存(今回は依存度、、高かったww)された風合いのプレッシャーを
感じた為の乗り切れない自分が居ての会場入りとなりました。
Forever とか、神様、天使、結婚、自由、、、
男の観念すぎる!(笑)
それをパロディってンのか、本気で信仰心持ってンのか曖昧!(笑)
(説明にあったことを元にその説明が成り立つか、私なりに考えてみると)
ランウェイは結果的に、とても2012年S/Sを表現出来ているようには
思えませんでしたww。ミニマリズムは加速するだろうし、そういう意味では
個人個人がForever fashionだと思っている物をずっと着用し続けるという
仮説は成り立つだろうけど、”forever”=”永遠”は、
何時眺めても新鮮なものであると
私は信じています。
”新鮮さ”を何も感じられなかったという意味では
無感動でした。
ただし、
ファッションショー(プレゼンテーション)
という議題に道を塞がれたことのある人であれば、
ファンタジーをリアリティーと戦わせる上での好醜無有の葛藤、
人目に自分をさらす羞恥が、
どれだけ難解なものかはそれぞれ判断出来るとおもいます。
日常にある空気(よし君の”よそ見”と”妄想”かもだけどw)
を描写することをあれだけ素直に、
フェアに、お茶目に、
そして、誰もやらなかったことを実行した点で、
計り知れない精神力を使ったことだろうし、
立ち位置付けの出来るアプローチを常に模索する姿勢には感服します。
よし君のショーの後って、スマイリーな夕食が出来るのです。
解放されたり、浄化出来たり、優しくさらけだせる気持ちになるのだろうなと思います。
ありがとうございました。
村田 明子 / MA deshabille / スタイリスト
印象が残る物について書くときは筆が自然と進む、という言葉をどこかで聴いた事が在るが、writtenafterwardsのコレクションに関しては様々な文脈で何かそれについて語りたくなるものが多い。
今回のコレクションはゴミを素材とした「0点」、布を巻き付けるだけといった「神々のファッションショー」、に続く文脈の作品だ。一連のコレクションについて共通するのは、デザイナーというよりも全て「ジャーナリスティックな視点」でコレクションのテーマを構成している事にある。
今回のテーマ、”freemaison”は言わずもがな陰謀論で検索すれば必ず登場する秘密結社の”freemason”を捩っているのには間違いない。コレクションで伝えたかった事、1つ目はFashionの世界における強者の政治的動きその老獪さについてこの業界で生きる人間の素朴な感想とやりきれない思い、そして2つ目には形骸化しつつあるランウェイショーのモデルよりも街角の人間の生活の現実、その現象の方にファッションのリアリティを感じるというデザイナーの素直な時代感覚ではないだろうか。
特に2つ目に関しては、Scot SchumanによるThe Sartolialistを代表とする様な土着の人間の生活の現実、「ファッションの外」の人々、その人々の人間らしさと滑稽さを伝えるものたちが強い影響力を持ち始めている事を暗示している。例えば、メンズウェアではAdam Kimmel, Frank Leder, に始まりUnit Benanなど土着の人間像をvisualおとしこむデザイナーが盛りあがっている。これは随分昔に「都市とモードのビデオノート」でYohji YamamotoがWim Wendersと共にAugust Sanderの写真を眺めてインスピレーションを受ける1シーン、素朴な「人間に対する興味」という観点に時代が進みつつ在る事をうまく暗示していた。
1つ目に関しては、ファッションメディアだけではなくメディア全般、社会の仕組みに対する痛烈な風刺、それを陰謀論を使ってナイーブな形で毒抜きの状態で持ち出して「人間の社会活動」を風刺しようととした事、それを言語ではなくコレクションで行った事に面白みがあった。「人間の社会活動」というより「にんげんのしゃかいかつどう」といった平仮名化による風刺というところだろうか。
二つ程今回のコレクションで感じた課題。
1つは「踏み込み」の足りなさかもしれない。ファッションに携わる人々をランウェイに上げたというのは良いサーカズムがあったように思えるが、集まる人間のバラエティを拡大できなかったという点、個人的には丸の内のサラリーマンのようなファッションの文脈から遠い人間を巻き込む仕組み、あるいはランウェイに上げる人間を選ぶくらいの踏み込みがあっても良かった。
2つ目は、このイベントでビジネスの仕組みが無かったというところ。
もちろんファッションブランドを一企業、若手のメゾンをシード段階のベンチャー企業と考えるとベンチャー企業は古典的な「きれいなモデルがきれいに着る服売る事」というビジネスモデルに事業マネタイズの仕組みを限定する必然性も必要性も無い。そういう意味での「仕組みの開拓」はこの世界はまだまだ可能性がある。
ショーの本来の目的は「ファッションの物」、その価値をプレゼンテーションするというものだが、その形骸化した文脈を踏襲どころか踏みつぶして新しい形で「もはや何が何だかわからない物」でいいから、それが資金に変わるような仕組み作り、ビジネスモデルを追求する事をwrittenafterwardsにはやってもらいたいと感じた。Fine ArtでMartin CreedやDamien Hirstがやってしまったように、
「造形群として語られるファッション」ではなく「現象としてのファッション」で活動を続けられるデザイナーがもっと出てくると面白い。
コイシユウスケ / 文筆家
ショーが終わって彼を見たときに
やりたい事が出来たんだなと感じると共に
今回のショーを通し 彼が今のファッションに対して
伝えたい気持ちはとても無垢で強く 素直な愛情を感じました
その一方で ある種 学芸会をプロの現場でやったような感覚におちいたのも事実で
彼が想いを伝えたい相手
コミュニケーションをとるべき場所
表現をするべき方法がチグハグに感じ
僕の心には彼が本当に伝えたい気持ちが届かなかった部分もありました
フリーメイソン 大人数の神様 下着が十字架になるといった
海外では文脈的に問題になる要素はあるにしろ
海外の文脈にのせ変えて 完全アウェーの地で
例えば パリのど真ん中で同じ事をしていたのなら
僕は彼の叫びに対して感動していたかもしれません
社会に対して今回のような表現を続けていくのなら
逃げ道をつくらずパンクロックを貫いて欲しいです
※フォークシンガーの彼にパンクロックができるかは謎ですが...
ただ今回のショーを見て
参加された方々がファッションについて考える宿題を貰った事は
意味があったのではないかと思っています
玉井 健太郎 / ASEEDONCLOUD