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MASATO ASHIDA

蘆田 暢人

建築家
1975年 京都生まれ
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了
内藤廣建築設計事務所を経て独立

蘆田暢人建築設計事務所 代表
ENERGY MEET 共同主宰

e-mail: mstashd@gmail.com
twitter: @masatoashida

装飾考

 先日、村田明子さん率いるMA déshabilléの展示会レセプションで開かれた國分功一郎先生のトークショーに行ってきました。タイトルは ’Fashion as Prodigality’ —浪費としてのファッションは可能か—。國分氏の主張する消費と浪費の違いから、話は装飾へとつながり、「衣服はそもそも装飾である!」との結論。非常に刺激的な内容でした。

 ここでのファッションにおける装飾とは、言ってみれば「プレゼンテーションとしての衣服」つまり、保温や礼儀といった衣服の機能性という側面ではなく、自らの身体を飾り、他人を魅せるための役割ということだったかと思います。
 國分氏は消費と浪費という観点において、次のように定義づけています。浪費とは、「必要を超えて物を受け取ること」つまり贅沢であり、それには限界があり、満足がある。それに対して、消費という行動においては、人は物自体に所有欲がわくのではなく、物が置かれている状況、そしてその記号性を欲するというのです。それはつまり「ブランド」や「グルメ」など「ブーム」に乗って、ひたすらに更新される「流行」というものを追い求めることだといえるでしょう。そこには限界がなく、満足することがないのです。

 國分氏は「浪費としてのファッション」、つまり満足を得るためのファッションを提言されていました。衣服はそもそも装飾であるから、自分が満足を得るために自らを飾る。それは消費の海に流されない行動だといえるのでしょう。
 自らを飾ること、つまり装飾としてのファッション、一体それはどういうことなのか、それを考えてみたいと思います。

 装飾とは何か? その問いに答えるのは非常に難しいように思います。全てのものが複合化し、多様化した現代においては、純粋な装飾あるいは純粋な機能、それらを個別に取り出すのは困難でしょう。衣服で言えば、染められた糸で織られた服は装飾か?ステッチは?柄は?腕より長い袖は?などなど。

 そもそも装飾とは、自然や神の世界を、世俗としての人間の社会(共同体)につなげるものだったのではないでしょうか。例えば、ゴシック建築のバラ窓、ギリシャ神殿のアカンサス模様、ドレスを彩る花模様。それらには、花言葉のように意味があり、17世紀頃のヨーロッパで盛んだったアレゴリー(寓意)表現のように物を媒介にした意図の伝達に使われていました。人は装飾という無機化された自然をコミュニケーションの媒介とすることで、自然とのつながりを失うことなく、社会を営んできたのです。

 そう考えると、19世紀末の建築家アドルフ・ロースが『装飾と犯罪』において、装飾は未開人のものであり、近代人は装飾を排するべきだと語ったことは、近代化/工業化した社会が、自然を克服し、自然から遊離する方向に進んだこととパラレルになります。近代社会は自然と同様に装飾からも遠ざかったのです。
 そして、突き進んだ近代化/工業化は、「合理的」という価値を生むことで、装飾/社会の中の自然を「過剰なもの」として排除したのです。その流れは、情報化社会に突入するとさらに加速されます。通信機器の発展は、記号の加速度的な流通を生み、消費社会が生み出されたのです。

 ぼくは衣服(ファッション)とはコミュニケーションツールだと思っています。今日会う人に合わせて服を選ぶこと、服を通して他人に自分の印象を与えることなど、これらは言葉にならない人とのコミュニケーションだと思います。消費としてのファッションは、流行という大きな波と自分との関わりにしか目が向いてなく、そこに対話はないといえるのではないでしょうか。

 現代は、近代化/工業化の反省からふたたび自然に目が向けられています。どこを見ても「環境問題」の話題が尽きません。デザインも自然に寄り添うべきだと思います。そこに再び装飾の可能性が生まれるのではないでしょうか。しかしそれは、決して昔のような装飾のあり方ではないでしょう。自然といっても、装飾のモチーフに多用されていた植物だけに限るものではありません。ぼくたちは改めて現代の装飾を考えていかないといけないと思います。

 対話的なコミュニケーションの媒介としての装飾的なもの。

 ファッションでいうとそれは素材に目を向けることかもしれません。あるいは衣服単体に留まらず、場所を作ることかもしれません。
 日本人は、人と出会ったとき、挨拶に続いてよく天気や季節の話をします。まさしく自然をコミュニケーションの契機にしているのです。この日本人的なコミュニケーションの作法は、ファッションにおける装飾のありかたを示唆している気がします。

2 Responses to “装飾考”

  1. DJ_AsadaAkira より:

    たぶんバタイユの『蕩尽』の概念からなのだと思いますが、そうすると恐らくこの『装飾』とは正しくバタイユに則り「『過剰』が『蕩尽』される」という話なのだと理解しております。なるほどその意味ではバタイユ的には合理的で洗練された近代とは否定されるものなのでしょう。そしてその通りで社会の発展はむしろ『蕩尽』へと向かった、と。とても意義深い解釈のように思います。
    純粋贈与たる装飾とはどのようなものになるか、おもしろそうな話ですね。

  2. 佐藤 美代子 より:

    難しいコメントは出来ませんが…私はこの内容を考えたことはないですが、なんだか肌で感じるというか、動物的に感じたまま買い物をし、満足を得生活して来ました。しかし着用時は確かに蘆田さんのいう“コミニュケーションツール”としてファッションを活用してきたと思います。そしてシンプルに暑さ寒さをしのぐために購入したものは自然と長く大切に着用されていますね。これは前前から思っていたのですが、ファッション性は勿論気にしますが、ファッション性だけではやはり人が暮らす上で自然の気候は無視できない関係性にあるからだと思います。自然と暮らしの関係がファッションだけでなく、世の中全てだということを気づきはじめているから、ecoが騒がれているのではないでしょうか。
    洋服業界にしばらく席を置いておりましたが、とても興味深いお話で楽しかったです。