インテリ→セレブ→ファッションデザイナー→マークジェイコブス→ユダヤ系アメリカ人→19世紀→ドイツ→新即物主義→表現主義
美術関連の歴史的な部分について徘徊中。
>>心理的な効果をもたらすために採られるいびつな形態。
リアリズムより優先される、内的経験の象徴的ないし様式的な表現。
とwiki文中にあるが、これは”デザイン”という面でも大きな比重を占める大きな意味だと思っていたり。
人は自由になりたくても、その実は自分を構成している過去からの継承によってほとんどが成り立っている。
だから、逃げられない。
でも、だからこそ逃げたい欲求が反発から生まれてくるのかもしれない。
自発的な欲求も反発的な欲求も意外に紙一重なんだろうかね。
“美術”とは一言で言ってみても色々あるけれど、意外に”デザイン”に似たようなもしくはそれと等しい行為がとられていたりするものなんだなと思うこともある。
でももしかしたらそれはただこのように後から文章で体系的に語ろうとすることで時代に勝手に整理されてしまっただけなのかもしれない。
主観と客観がごちゃまぜだ。
もちろん、wiki引用文章も長過ぎるので割愛。
次、個人主義。
http://twitter.com/hachiBALMUNG
表現主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
表現主義(ひょうげんしゅぎ)または表現派(ひょうげんは)とは、様々な芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向のことを指す。また、この語は感情の中でも特に不安や葛藤などをあらわしたものを指すことが多い(表現主義の作品で、陽気で快活なものはあまり見られず、陰鬱なものが多い)。この一般的な意味では、表現主義的傾向を持った作品を生み出した芸術家は様々な時代に存在した。例えば、ルネサンス期のエル・グレコ、マティアス・グリューネヴァルトなどは、これに含めて考えることができる。
しかし、狭い意味の表現主義は、20世紀初頭にドイツにおいて生まれた芸術運動であるドイツ表現主義(またはドイツ表現派)および、その影響を受けて様々に発展した20世紀以降の芸術家やその作品について使われることが多い。これには、抽象表現主義などが含まれる。
なお、日本語に翻訳してしまうとわからなくなってしまうが、「表現主義」(英語ではExpressionism)の語は「印象主義」(英語ではImpressionism)の語と語形の上でも対立している。
目次 [非表示]
1 ドイツ表現主義
2 美術
3 音楽
4 文学・演劇
5 建築
5.1 特徴
5.2 社会的・思想的背景
5.3 形態と素材
6 映像
7 関連項目
8 外部リンク
ドイツ表現主義 [編集]
ドイツ表現主義は、20世紀初頭にドイツで起こった一大芸術運動である。この感情表現を中心とする手法は、当時、他のヨーロッパの国々で盛んであった印象派(物事の外面的な特徴を描写する)とは対極に位置する。表現主義は、第一次世界大戦後すぐに、他の運動へと受け継がれていった。例えば、構成主義、新即物主義、そして後の抽象表現主義、超写実主義である。
ドイツ表現主義の作品において、よく扱われるテーマは、生活の矛盾(性的なもの、家族間のものなど)から、革命、戦争、社会の矛盾など、いわば既存の秩序や市民生活に対する反逆を目指したものが多い。ドイツ表現主義においては、伝統的な芸術の様式は破壊され、また自然主義とは正反対の立場をとる。表現主義者は、ニーチェに思想的な影響を受けているとされる。
美術 [編集]
20世紀のドイツ表現主義の画家に直接的な影響を与えたのは、ファン・ゴッホであった。20世紀初頭のドイツには、青騎士やブリュッケなど、いくつかの表現主義の画家のグループがあった。
ドイツ表現主義の画家には、
マリアンネ・フォン・ヴェレフキン (Marianne von Werefkin, 1860 – 1938)(青)(en, de)
ワシリー・カンディンスキー (Wassily Kandinsky, 1866 – 1944)(青)
ハインリヒ・カンペンドンク (Heinrich Campendonk, 1889 – 1957)(ラ)(de)
エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー (Ernst Ludwig Kirchner, 1880 – 1938)(ブ) – 彫塑作品でも知られる
ジョージ・グロス (George Grosz, 1893 – 1959) (en, de)
オスカー・ココシュカ (Oskar Kokoschka, 1886 – 1980) – 著作もある
カール・シュミット=ロットルフ (Karl Schmidt-Rottluff, 1884-1976)(ブ)(de)
エゴン・シーレ (Egon Schiele, 1890 – 1918)
オットー・ディクス (Otto Dix, 1891 – 1969) (de) – 後にノイエ・ザッハリッヒカイトへ
エミール・ノルデ (Emil Nolde, 1867 – 1956)(北)
リオネル・ファイニンガー (Lyonel Feininger, 1871 – 1956) (de) – 風刺画家としても知られる
コンラート・フェリクスミュラー (Conrad Felixmüller, 1897 – 1977) (de) – 後に新即物主義へ
マックス・ベックマン (Max Beckmann, 1884 – 1950) (de)
エーリッヒ・ヘッケル (Erich Heckel, 1883 – 1970) (ブ) (de)
マックス・ペヒシュタイン (Max Pechstein, 1881 – 1955)(ブ)(de)
ルートヴィッヒ・マイトナー (Ludwig Meidner, 1884 – 1966) (de) – 詩人としても知られる
アウグスト・マッケ (August Macke, 1887 – 1914)(ラ)(de)
フランツ・マルク (Franz Marc, 1880 – 1916)(青)
ガブリエーレ・ミュンター (Gabriele Münter, 1877 – 1962)(青)(de)
オットー・ミュラー (Otto Mueller, 1874 – 1930)(ブ) (de)
パウラ・モーダーゾーン=ベッカー (Paula Modersohn-Becker, 1876 – 1907)(北) (de)
ヴィルヘルム・モルグナー (Wilhelm Morgner, 1891 – 1917)(ラ)(de)
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー (Alexej von Jawlensky, 1864 – 1941)(青) (de)
クリスティアン・ロールフス (Christian Rohlfs, 1849 – 1938)(北)(de)
がいる。(青:「青騎士」に所属、ブ:「ブリュッケ」に所属、北:北ドイツ表現派、ラ:ライン地方 表現派)
また、主な活動の場がドイツ以外であり、ドイツ表現主義には含められていないが、同時代、表現主義の画家として知られているのは、
ハイム・スーチン (Chaim Soutine, 1894 – 1944) – パリで活躍
エドヴァルド・ムンク (Edvard Munch, 1863 – 1944) – ノルウェー中心
などである。
音楽 [編集]
音楽では、新ヴィーン楽派の3人の作曲家
アルノルト・シェーンベルク
アルバン・ベルク
アントン・ウェーベルン
の自由な無調の時代の作品が表現主義とされる。
他にも、
バルトーク・ベーラ
パウル・ヒンデミット
の第一次世界大戦前の作品や、
エルンスト・クレネク
の若き日の作品などに表現主義の傾向が見られるほか、新ヴィーン楽派よりも上の世代の作曲家では
リヒャルト・シュトラウス
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー
なども表現主義の傾向を持った作品を残している。
文学・演劇 [編集]
エルンスト・シュタードラー (Ernst Stadler)
エルゼ・ラスカー=シューラー (Else Lasker-Schüler)
ゲオルク・ハイム (Georg Heym)
ゲオルク・トラークル (Georg Trakl)
ゴットフリート・ベン (Gottfried Benn)
ブラス
ドイブラー Däubler
ファン・ホディス van Hoddis
エートシュミット Edschmid
フランツ・カフカ (Franz Kafka)
アウグスト・シュトラム (August Stramm)
ヴァルター・ハーゼンクレーヴァー (Walter Hasenclever)
演劇の分野では、20世紀初頭、ゲオルグ・カイザー、エルンスト・トラーらを中心としたドイツ演劇で盛んであった。
建築 [編集]
表現主義の建築は、20世紀初頭にヨーロッパで発達した建築学上のスタイルばかりでなく、さらには建築物のデザインや形態に対して類似したアプローチをとる後世の仕事の方向性を決定したともいえる。表現主義の建築はまず多分野にわたる表現主義運動の一環として1910年 – 1925年ごろのドイツ語圏で始まったが、同時期にオランダでもアムステルダム派が生まれていた。そのスタイルを特徴づけるのは初期の近代主義者の採択した新しい材料や形式の革新、そして社会の大衆化であり、レンガや鉄、そしてとりわけガラスの大量生産によってもたらされた新しい技術的な可能性から少なからず着想を得ている。これらの動向は、映画などの視覚芸術におけるドイツ表現主義運動と並行して発達した。当時の経済状態から建築の依頼は限られていたので、ブルーノ・タウトの『アルプス建築』(”Alpine Architecture”、1917年[1])やヘルマン・フィンスターリン(? en:Hermann Finsterlin)の”Formspiels”のように設計されたきり建てられることのなかった作品や、短期間しか展示されなかった建物も非常に多かったが、建築学史的にはきわめて重要なものである。しかし演劇や映画から遠近図法を駆使した舞台セットの需要があったため、表現主義の建築家たちはイマジネーションを膨らませ、古い伝統に挑戦することで財布も膨らませることができた。
表現主義建築の歴史において特筆に値する出来事としては、1914年にケルンで行われた第1回ドイツ工作連盟展、1919年のベルリン大劇場(en:Großes Schauspielhaus)(ハンス・ペルツィヒ設計)の落成と上演活動、ブルーノ・タウトを中心とした建築家たちによる往復書簡「ガラスの鎖」、そしてオランダのアムステルダム派の運動などが挙げられる。 表現主義の建築家にとって永遠の目標となっているエーリヒ・メンデルゾーン作のアインシュタイン・タワー(ポツダム)が建てられたのは1921年のことである。しかし、1925年までにタウトやメンデルゾーン、ペルツィヒなどの主な表現主義建築家たちは、視覚芸術における表現主義芸術家たちとともに新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)の運動へと転じていった。これはより実際的・実務的な方法論に基づくもので、初期の実験を捨て去ったといってもよいほどの方向転換であり、ハンス・シャロウンのように表現主義の作風を守ったのは少数派であった。1933年にドイツでナチスが政権を獲得して以降、表現主義は「退廃芸術」として非合法化され、運動それ自体は終息へ向かうが、多岐にわたる運動の残した遺産は今日にいたっても多くの芸術家にインスピレーションを与えている。
特徴 [編集]
個人主義的であった表現主義建築は、さまざまな点において美学的ドグマを避けつつも、その運動自体の展開とコンセプトの深化は美学的規範の発展に大きく寄与することとなった。表現主義建築の作品はヴァラエティと差異に富んでいるが、それらの作品群において反復されていることがある程度明らかに見て取れる共通点もいくつかある。
心理的な効果をもたらすために採られるいびつな形態。
リアリズムより優先される、内的経験の象徴的ないし様式的な表現。
新しく、オリジナルで、しかも幻想的なものの達成を支える潜勢的な効果。
実際に完成した作品よりも重要な設計思想を発見し提示する大量の設計図と模型。
個々のコンセプトへ分割不可能な混交的解決の多用。
洞窟や山、稲妻、水晶や岩石の地層などをモチーフとしたロマンティックな自然現象というテーマ(ただし、比較的時代も近く鉄やガラスといった素材への偏愛という共通点のあるアール・ヌーヴォーのように華麗で有機的なものではなく、むしろ素朴かつ無機的である)。
職人的技巧を極める努力に対する創作力の傾注。
古典主義様式よりはむしろゴシック様式、あるいはロマネスク様式やロココ様式への志向。
ローマやギリシアからばかりでなく、ムーア人やムスリムやエジプト人、はてはインド人の芸術や建築からも受け継いだ遺産(ヨーロッパでも特に東欧で盛んであった表現主義は西洋の血と東洋の血を分け持っているのである)。
「芸術作品としての建築」という概念の導入。
社会的・思想的背景 [編集]
表現主義建築の背景にあるのは政治的、経済的、芸術的な変容である。ドイツの戦争、共産主義、社会主義、内戦、それにともなう混乱といったことの全てが、ユートピアの実現を目指した表現主義の発展に寄与することとなった。社会民主主義や、第一次世界大戦後の疲弊に順応しつつあったドイツ国民に支えられたワイマール共和国の目的は、新しい表現形式の発展を受けて戦前からある事業計画の推進を鼓舞するどころか、むしろ停滞させる気風しか生まなかった。皇帝ヴィルヘルム2世退位後の社会再建も同様である。そこで知識人の左翼的な発想はロシア革命(それはロシア・アヴァンギャルドと並走していた)に似た変革を求めた。ハイコストで壮大なベルリン大劇場の改築は、戦時中の経費や戦後の不景気よりも戦前の帝国を想起させるものだった。
表現主義建築に先行しながら同時代まで存続していた、共通点のある芸術運動にはアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォー、ドイツのユーゲント・シュティールなどがある。デザイナーと職人の統一は、表現主義建築にもつながるアーツ・アンド・クラフツ運動の主要な特徴であった。アール・ヌーヴォーにおいてしばしば見られる(ロマン主義においても一般的であった)自然主義的な題材も継続していたが、その華々しさは鳴りをひそめ、より現世的に方向転換をした。フィンスターリンは自然科学者エルンスト・ヘッケル(著書『自然の芸術』(de:Kunstformen der Natur)の挿絵をみずから描いている)と知り合い、その生態学から自然物の形態というインスピレーションの源を見いだした。
イタリアの未来派やロシア構成主義、そしてダダイスムは表現主義の時代に姿を現わし、類似点もしばしば見られた。ブルーノ・タウトの雑誌『Frülicht』の記事には、ウラジーミル・タトリンによる第三インターナショナル記念碑(en:Tatlin’s Tower)のような構成主義の成果も含まれていた。ただし、未来派と構成主義が強調した機械工業化と都市化傾向がドイツでも支配的になるまでには新即物主義の時代を待たなければならない。メンデルゾーンは未来派と構成主義の境界線上で仕事をした特例であり、彼のスケッチにおけるダイナミックで溢れ返らんばかりのエネルギーという特質は、未来派のアントニオ・サンテリアのスケッチ上にも存在する。ダダの芸術家クルト・シュヴィッタースによるメルツバウにも、その角ばった抽象的な形態など、表現主義的な特徴が散見される。
フランク・ロイド・ライトとアントニ・ガウディのような個人主義者の影響も、表現主義建築の背景となる文脈を提供した。というのも、ライトの作品集はメンデルゾーンの講義に用いられて彼の周囲で広く知られるようになっており、またガウディの仕事とベルリンでの動向は相互に影響を与え合っていたからである。例えば1926年にベルリンで結成された建築家たちのサークル”der Ring”も、ドイツで出版したりフィンスターリンと文通していたガウディについては知っていた。ただしガウディについて補足すると、バルセロナではアール・ヌーヴォーの建築と20世紀初頭の建築(ユーゲント・シュティールと対立した)とが急速に断絶するには至らなかったため、ガウディの仕事はブルーノ・タウトが主張するようなものよりはむしろアール・ヌーヴォー的な要素の方が多く含まれてはいる。
スコットランド、ヘリンズバラのヒル・ハウス、マッキントッシュ作
表現主義建築のより大きな背景としては、スコットランドのチャールズ・レニー・マッキントッシュの仕事について言及しなければならない。彼が制作したヒル・ハウスのような建物やイングラムチェアは一概にアーツ・アンド・クラフツ運動やアール・ヌーヴォーとしては分類しにくく、表現主義的な色合いがある。彼の仕事は1900年にウィーン分離派展に出展されていたので大陸でも知られていた。
表現主義建築は多くの作家からその思想的な素地を得ている。表現主義の建築家にとってとりわけ重要な哲学的源泉は、ニーチェ、キェルケゴール、そしてベルクソンらの著書である。ブルーノ・タウトのスケッチではニーチェの著作、とりわけ『ツァラトゥストラはかく語りき』が頻繁に引用される。なぜなら、その主人公こそ表現主義者の求める自由――ブルジョア的世界を拒否する自由、歴史からの自由、個人主義的な孤独に生きる精神の力強さ――の体現者だからである。タウトの『アルプス建築』もツァラトゥストラの下山からインスピレーションを得て構想されたものである。またアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデもニーチェの強い影響下にあり、みずから『この人を見よ』の扉ページのイラストを描いている。またフランツ・カフカの『変身』における形態の変容も、表現主義建築の特徴である素材の不定と照応している。タウトの最もよく知られた建築作品の一つであるグラス・パヴィリオン(第1回ドイツ工作連盟展にて公開)は、彼のサークルに関わっていた詩人パウル・シェーアバルトの著作『ガラス建築』からヒントを得たものである。
フロイトやユングらの精神分析学の登場は、表現主義にとって重要だった。形態と空間の与える心理的効果に関する調査が、建築や研究や映画の中で建築家によって行われた。タウトは、「オブジェが俳優の感情や所作を反映するという心理的な役割を果たす」という舞台背景のデザインがもつ心理学的な可能性に注意した。夢と無意識についての研究はまた、形態に関するフィンスターリンの探求にも材料を提供した。
表現主義者たちの思考の精髄は、『芸術における精神的なものについて』(”Concerning the Spiritual in Art”、1912年)や『点と線から面へ』(”Point and Line to Plane”、1922年)などカンディンスキーの芸術論に見て取ることができる。
形態と素材 [編集]
表現主義建築の形態は、先行するアール・ヌーヴォーやユーゲント・シュティールから分離することによって表現主義建築を定義する役割を果たした。アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、装飾や当時の同傾向のものから個人主義的で象徴的な形態概念へと自分の建築を移行させることができた。アール・ヌーヴォーは装飾に関して構成的な自由を保持していたが、表現主義の建築家たちは部分的にではなく建築全体の形態を自由に解放するべく努めた。実際に建てられたものばかりでなく図面上の作品からもそれは明らかである。フィンスターリンの”Formspiels”は不定形な構成要素の集積へと転じた建造物の形態を例示している。またブルーノ・タウトの『アルプス建築』は、その全ての骨格が結晶構造に変えられた冷ややかに光る建造物として構想されている。