今日は現在開催中の「F∪T∪RE BEA∪TY」展の最後の部屋についてのお話です。
あまり展覧会について僕が書くことはしない方がよいのかもしれませんが、展示がわかりにくいと思うので少しだけ補助線を。
あくまで僕の個人的見解としてお読み下さい。
ちなみに、このブログで既に書いていることとほとんど同じなので、「またか」と思われるかも知れませんが、ご容赦のほどを。
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第4セクションのタイトルにも使われている「物語」ですが、いわゆる「ストーリー/お話」という意味だけでなく、もう少し広い意味を持たせています。
一枚の絵画、一本の映画、一篇の小説などと比べると、一枚の服のもつ情報量はきわめて少ないです。たとえば映画であればプロットがあり、役者がいて、映像が次々に流れ、音楽がつけられ、と人間の感覚では認識しきれないほどの情報が詰まっています。映画について語る場合、あらすじを述べるだけでも10分や20分かけられます。一方で、衣服の場合は色、形──しかもほとんど定型がある──、生地の質感など、きわめて少量の要素しかありません。
このように、衣服はただでさえ情報量が少ないのに、近年隆盛しているファストファッションなどは、デザイナーの思想や、制作における職人的な手仕事など、さらに色々なものをそぎ落としています。これらはその意味で「軽い」服だといえます。
(これはファストファッションに限らず、「制作のコンセプトやテーマはありません。自分がかわいいと思うものを作っています」と言ってしまうようなデザイナーなどもそうです。)
一方で、衣服にできるだけ多くの情報を付与するようなデザイナーが現われています。その付与の仕方は、ASEEDONCLOUDのように(狭義の)物語を作ったり、Aski Kataskiのようにわざわざ蚤の市などで古い布を集めてきたりと様々です。
軽い方へ軽い方へと向かう潮流に抗うかのように──とはいえ、本人たちにはそうした反骨精神のようなものがあるわけではありませんが──、彼等は服そのものに、あるいは服の背後にさまざまな要素──これを物語と僕は読んでいるのですが──を加えているのです。
言い換えれば「重い」服を作っていること、それが選出のひとつのポイントです。
もうひとつは「コミュニケーション」です。熱海のコミュニティに溶け込みつつ制作・発表するEatable of Many Ordersのように、パリや東京といった「ファッション都市」で活動するだけで事足れりとしないあり方。「ファッション・コンシャス」な人以外の層とのコミュニケーションをこれまでのデザイナーはなおざりにしてきたように思うからです。換言すれば、共生する(ベタな言葉ですが)デザイナーであること、それがもうひとつのポイントです。
もう少し詳しく知りたい方はこのカタログ(別冊)をご覧ください。恐らく理解の助けになるのではないかと思います。
追記:展覧会タイトルがギャル文字みたいになってるのは検索にひっかからないようにするためです。