前回のブログで告知した「ドリフのファッション研究室」では、「そもそも批評とは何のためにあるのか」という話から議論を始めようとしたのですが、会場からの質問や来場者の感想を聞くと、批評の必要性がいまひとつ伝わっていないような気がしました。
そこで、補足がてら再びファッションの批評についての話を少しだけ。
まず批評の意味について。
人によって批評の定義は様々だと思いますが、端的に言うと、批評という行為はある作品の評価を言語化することだと思っています。
ではなぜ言語化が必要なのでしょうか。
それは、現在の積み重ねが歴史を作ることになるからです。
毎シーズン、星の数ほどの服が作られ、最近ではウェブ上にアーカイブされ続けていますが、果たしてそれが集積されるだけで歴史が構築されるでしょうか。オンライン・アーカイブによって写真や映像などの視覚資料にアクセスしやすくなったのは素晴らしいことなのですが、資料が増えれば増えるほど情報の取捨選択が必要となります。
たとえば2000年代の(ハイ・)ファッション史を語ろうと思ったときに、存在したすべてのブランドに言及することはできるはずもありません。だとすれば、そこで情報を選択する指針が必要となってくるはずです。そのための一助となるのが批評です。
こう言うと、批評家のエゴだとかよく言われてしまいますし、ドリフで千葉雅也さんも仰っていたように完全に客観的な批評は不可能です。ただ、基準を提示した上で論理的な記述がされていれば、その批評に説得力があるかどうかを判断できるので、作品/作家と同様に、批評(家)も取捨選択されることになります。
「今シーズンの○○はミニマルでエレガントだった」のようなディスクリプションでは、その是非を判断することもできません。
ちなみに、会場からの質問で「概念が濫用されている」というご意見がありました。その方はミニマリズムの例を挙げ、「ファッションで言われるミニマリズムは模様がないとかシンプルだとか、その程度の意味しか持っていない」という旨のことを仰っていました(正確な言葉を覚えていないので、記憶違いがあったらすみません)。それは、僕が以前ここでモダニズムについて書いたことと同じで、概念をファッションの歴史や理論を踏まえて整理(あるいは構築)するべきだということです。
何をもってミニマルとするのか、エレガントとはどういうことなのか、こうした概念を考えていくのも批評(や研究)の役割です。
1990年代から2000年代の日本のファッション史を概観することすら難しくなっているのは、批評の不在に一因があることは間違いありません。「歴史なんていらない」という人にその意義を伝えるのは難しいかもしれませんが、批評が機能していれば、もっと多くのデザイナーが生き残り得たとも思っています。
短期的に見れば、服を買うことが直接にデザイナーを支援することになるのかもしれませんが、長期的に見れば、批評を書くことはデザイナーが生き残る道を作っていくことにもつながるはずです。