Blog

HIROSHI ASHIDA

蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida

1978年、京都生まれ。 京都大学大学院博士課程研究指導認定退学。
ファッションの批評誌『fashionista』編集委員。
京都にある某ファッション系研究機関でキュレーター。
e-mail: ashidahiroshi ★ gmail.com(★を@に)
http://twitter.com/ihsorihadihsa

『fashionista』の情報は↓
http://fashionista-mag.blogspot.com/
http://www.facebook.com/mag.fashionista

批評基準について その1

東京も本格的にコレクションシーズン突入ですね。

ファッションの批評の可能性を考えるにあたって、批評の基準というものは必ず考えていかなければならないものだと思っています。

他分野の批評家でも、基準を明示している人はあまりいないように見受けられるのですが、誠実な批評を心がけるのであれば、そこは避けて通れないところだと思っています。ただ、これは本当に難しいことで、すぐに答えが出せるようなものではありませんし、このブログでも色々とご意見をいただければ嬉しいです。

そもそも、なぜ基準を明確にしなければならないかというと、「良し悪し」と「好き嫌い」を決して混同してはならないことが理由のひとつとして挙げられます。批評は決して「好き嫌い」で語るものではないからです。

よく「批評なんてその人の好き嫌いでしかない」と言われることもありますが、それはまったく違いますし、そういう人がいるとすれば、その人がやっているのは批評ではありません。

もっと言えば、批評家の数だけ批評基準があるはずですし、批評家によって作品の評価が割れることは何らおかしいことでもありません。ただ、その差異をどのように議論できるのかが生産的な批評の場だと思いますので、そのためにも基準は常に考えていかねばなりません。

Aさんの基準では「良くない」と判断されてもBさんの基準では「良い」となることもあります。基準がはっきりしていればなぜ評価が割れるのかも考えることができますが、基準がなければ、それ以上議論を展開することができなくなってしまいます。

(たとえば、パリのモード&テキスタイル美術館の学芸員が展覧会の出品作品を選ぶ基準を聞かれたときに、「別に基準はありませんでした」と答えたりしていますが、それでは「好き嫌い」にしかなりません。http://fashionjp.net/highfashiononline/feature/exhibition/lesartsdecoratifs.html

ファッションでそんなことをしている人はなかなかいないのですが(僕が知らないだけかもしれませんが)、平川武治さんが基準を提示しているので、まずそれを参考にしてみましょう。

平川さんが立てた基準は次の5つです(読みやすいように表記を少し改めました)。

1)クリエイティビティ:
時代観と美意識をバランスで診てそのデザイナーのオリジナリティを読む。
2)クオリティ:
どれだけその服が美しくクオリティ高く出来上がっているか。作られた服に対する気持ちのクオリティと技術面からのクオリティ。
3)イメージ:
デザイナーが感じる時代観とその雰囲気や気分をどのようにイメージングしているか?そのアイディアと独創性。
4)ウェアラブル:
着れる服であること。時代が求める機能性や汎応用性をも含めた着れる服であること。ここで僕はファッションはアートでないという視点を重視。着る人の心や気分そして環境や風景とのバランスを感じ読む。
5)プライス:
当然ファッションもビジネスであるため、モノに見合った価格が大切。ここではどれだけそのデザイナーたちがプロであるか?を読む。身勝手な自己満足におぼれたデザイナーはここで落ちる。

http://lepli.org/discipline/articles/2004/05/new3_wwd_japan.html より)

もちろん、僕自身がこれに全面的に賛同するわけではありませんし、細かい点を言えば気になる部分もあります。

たとえば、「ウェアラブル」であることは良い作品につながるのかどうか。

僕はファッションを美術のように扱う必要は全くないと思っていますが、それと同時にファッションを美術のように扱ってはいけないこともないと思っています。僕の美術作品の評価基準のひとつに「私たちが通常気づかない事物(世界)のあり方を見せてくれること」(これだけだとわかりにくいですね。また別の機会に説明します。)があるのですが、ファッションにそれを適用してもまったく問題ないと思います。ウェアラブルでなくても、あるいはウェアラブルではないからこそ、見えてくる世界もあるかもしれません。

とはいえ、この五つの基準はかなり練られたものであることには違いありません。これらの基準が適切なのかどうか、もっと考えるべき基準があるのか現時点でははっきりと言うことができませんが、ここで少しずつ考えていきたいと思います。

4 Responses to “批評基準について その1”

  1. honda より:

    ファッション批評、面白いですね。

    たしかにファッションを語る言葉の多くは批評ではなく流行発信をするためのもの、さらに日本ではもう一歩下がった流行発信されたものを紹介するもの、という印象です。

    一方で、ひとつ気になるのですが、批評における評価基準というものを作る必要性はあるのですか?
    美術・映画・文学・建築などのすでに批評の場が確立しているものですら、マーケットに対する作品のヒエラルキーとして機能するもの、その分野の歴史上における先進性、哲学的概念的観点からの発見に対し、技術的な先進性に対して、と論客によって批評基準はバラバラであると思うのですが。

    評価基準を作ること、それがどんなに誠実であっても、それは批評空間というよりも、ファッション界の芥川賞やターナー賞のようなコンテストになってしまうのではないかと思います。(ただし個人的にはそのような正統判断のあるコンテストは必要でもあると思いますが・・・)

  2. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    コメントありがとうございます。

    言葉足らずだったかもしれませんが、批評家すべてが従うべき基準が必要だというのではなく、各批評家がそれぞれの基準を提示するのが理想だと思っております。

    僕自身、その基準を探っている段階なのですが、今のところはコンセプトの立て方、内容とその見せ方に重きを置いています。
    (その中身を考えていくとオリジナリティなどの問題も関わってくるので、一言でまとめるのは難しいですが。)

    ただ、それ以外にも色々な基準を立てられるはずなので、少しずつ考えていきたいと思います。

    またご意見やアドバイスをいただければ嬉しいです。

  3. honda より:

    蘆田さまへ

    前回の件は私の早計で失礼いたしました。

    >批評家すべてが従うべき基準が必要だというのではなく、各批評家がそれぞれの基準を提示するのが理想だと思っております。

    ということで、つまり蘆田さまが個人的基準を探がしていくと同時にその基準を明確に表明した上で批評をしていきたいという旨のことだったのですね。

    そこでそれをふまえたうえで、また、ご迷惑をなのを承知でお聞きしたいのですが、カントの「判断力批判」における美に対する説明の「目的なき合目的」という基準では考えておられないのでしょうか。
    つまり、洋服を目の前にして、事前に用意したいくつかのゲージで値を計る観測者であろうとするのが平川武治さんでありそのゲージにあたるものが評価基準。それに対して、目の前の洋服がどうしても語りかけてくる「これぞファッションの美である」ことそして「これがファッションである」ことを忠実に文面におこす翻訳者というのも必要であると思います。

    (うまく伝えにくいのですが、、映画でいうゴダールやアートでいうデュシャンや音楽でいうジョンケージのような人たちの、観測者のゲージではどうしてもこぼれてしまうが評価せざるをえないような作品、そしてファッションで言えば例えばカートコバーンその人がありきのグランジファッションなど、とくに作品やオブジェクトが存在しない場合でもファッション界としては無視できないような事件というのは度々起こると思うのですが、そのようなことを語る立場としてのという意味で翻訳者が必要であると考えています。)

  4. 蘆田 裕史 / Hiroshi Ashida より:

    hondaさま

    とんでもないです!
    むしろ、honda様のおかげで他の方にも僕の意図がはっきり伝わると思いますので、ありがたいです。

    実は僕もファッション批評においては、「美」というものを基準のひとつに立てられるのではないだろうか、と思っていたのです。
    現代の美術批評では絶対に出てこないだろう基準ですが、ファッションの独自性として、それもありなのではないか、と。
    hondaさんと同様に、カントあたりからその問題を考えてみようと思っていました。
    ただ、そこはまだ詰められていないので、hondaさんが挙げられた例に関して言えば、デュシャンやケージのような存在に関しては、「オリジナリティ」という基準を考えれば対処できるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

    もちろん、基準というものは一種の規則のようなものですので、あまりに杓子定規になってしまっても良くないですし、なかなか難しいですよね。