先日の蘆田マサトさんブログでの
>日本人は、人と出会ったとき、挨拶に続いてよく天気や季節の話をします。まさしく自然をコミュニケーションの契機にしているのです。この日本人的なコミュニケーションの作法は、ファッションにおける装飾のありかたを示唆している気がします。
この文章にハッとさせられます、日本人は農耕民族である所以なんでしょうね。
日本の神様(宗教性の象徴)は八百万神”やおろずのかみ”と言われているようにそれぞれの地域ごとにそれぞれの違った神様がおり、その地域に住んでる人はその神様を尊ぶとしていたと言われています。
恐れの存在でもある神というものを考える場合、これもよく言われることですが農耕に携わる民族である日本人にとって神とは晴れを与えてくれる太陽であり、水を与えてくれる雨であり、全てを奪い去ってしまう台風や地震などの天災であるのでしょう。恵みも与えれば罰も与える存在。
というか、まさしく「天災」と書くが如く、天からの災いです。
たとえば日本人のファッションの志向性として他の国の人たち以上にとても宗教的だと僕は考えます。
無意識の中にも何らかの象徴の”ようなもの”が在り、
もちろん他国のファッション観にもそれは同じく言えていることなんですが、日本人が面白いところが「日本」というみんなで背負っている同じ大きな看板とは別にそれぞれの「ローカル」に根ざした違いがファッションとして表れておりそれが宗教観になっていて、その違いが同じ日本人なのにたくさん多種多様に違いすぎる点。(ここでいうローカルとは物理的な意味での地域性というよりは「見てる雑誌、見てるサイト、趣味性、誰と友達か」というようなその人の肌感覚的な意味合い)
その宗教、つまり神がたくさん存在しており、それをその人が一番リアリティを重ねられる場所として選択し、それを衣服やその他の行動なりで表現していたりする。
例えばアート、つまり芸術というのはぼくが考えるに「その宗教性に対する賛美歌」であると思っていて、想いや価値そしてその絶対性のような神のようなものを何か可視化したり具体化する行為である面が多分にあると思っていて。(もちろん色々な考えはあるだろうけど)
よく「アートとファッション」というように隣同士に対比させられながらもその近似性のようなものを問われることがあると思うのですが、
人が原始的な段階からずっと営んでいて現代でも途絶えなく続いているその”ファッション”という行為はその時代時代におけるそれぞれの価値観における賛美歌であるという点において、ぼくはファッションがアートたり得る点でありアートがファッション化する点である交差点であると思っています。
話は少し変わりますが、例えばル・コルビジェの建築サヴォア邸。
たとえばこれは近代建築の祖と言われていたりしますが、やはり現代における”経済主義”や”効率主義”とでも言えるこの時代を明らかに表していたりして、やはり服も時代と共にどんどんそういった”物理的な”装飾排除の方向に移ってきました。
これはきっと現在のグローバルで様々な色や価値が交差して同じ場所に内容される時代の在り方を、建築という表現領域で示唆していたんだと感じます。
例えばこの写真で感じるイメージや考え方というものが現在のAppleの「iphone」にまで地続きで繋がっていることはこの写真を見ればはっきりわかります。
建築とかってその時代に対する宗教性に対する提示そのものでもあると思っていたりして、
「残る建築」っていうのはその中でも見えざる手のようなものに選びぬかれたものだけなんだろうな、なんて思ったりします。
服は残りませんが…。笑
ただし、歴史という前後関係では確かめられなくても、その時代に対するテンションのような何か魂が繋がっているような感覚にジャンルの壁は無く、そこで確かめ合えることがたくさんあると思っています。
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