Interview

蘆田裕史 5/5

批評や文化的な視座があれば、あるいは別の形のファッション・システムがあれば、今までのブランドがビジネスをもう少し続けられていたかもしれませんし、少なくとも歴史には名前が残っていたかもしれないと思うんです

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―今後どういった論文、批評が出て来て欲しいですか?

個人的には、僕が書けないようなものを書いてくれる人が出てくれたら良いと思います。服そのものだったり、ビジネスだったり、あとは予想もできないものが出て来てくれたら嬉しいです。
書き手は学生でも社会人でも誰でもいい。肩書も実績も不要です。冒険的な人や面白い人は積極的に取り上げていきたいです。それは多分、商業誌では出来ないことだと思いますので。

―批評が出来るのであればデザイナー的なことも出来るのではないのかと思ってしまいますが?

 僕自身は服を作ることができないので、誰か他の人と組んでやるのであれば可能かもしれませんね。

―なぜ今までファッション批評が日本ではあまり定着して来なかったのでしょうか?

 ビジネスの人から嫌われているということもあるのかもしれませんが、言語化しにくいのが理由だと思います。ファッションの批評と言っても何を批評するのか。ファッションショーを批評するのか、服一枚を批評するのか、あるいは一シーズンのコレクションの写真でも良いのかというように対象が全然はっきりしていません。美術であれば一枚の絵だったり、展覧会だったり単位ははっきりしているけどファッションですとそれすらはっきりしていません。1枚の服を語ることはかなり困難を極める行為だと思いますので。

―今後批評空間を築いていく為に必要なことはなんだと思いますか?

まずは僕たちが”fashionista”を出し続けることです。そして”fashionista”だけでなく他のものがでてきてほしいです。
批評は、その人の基準で見たらどうなるかという話であり、それが正しいわけでもありませんし、絶対的なものでもありません。
例えば僕がASEEDONCLOUDを評価出来るというのは僕の評価軸にそってのことです。別の人は別の評価軸をもっているし他のブランドを評価する。色んな人がいると思います。そうなった時に、『fashionista』は僕や水野君の目がはいってしまうからどうしても僕たちのカラーが出てしまうんです。だからこそ、全然違う物がどんどん出て来て欲しいと思います。

―極端な話ですが批評を否定する為の本でもよろしいのでしょうか?

それを論理的に書くことができるのであれば素晴らしいと思います。それに反論することで、逆に批評の必要性を論じるための材料になるので。

―批評に対して興味を持っている人もたくさんいるのがわかりましたが反面、まだそこに対して批判的な意見も多いです。

 僕たちはビジネスのことがわかっていないというような意見もいただきます。こんな本を出して何の意味があるのか、とかも。ビジネス面での評価は売り上げで判断できますよね。でも、例えばなぜsacaiがこんなに利益を上げているのかを論じることが出来るのであれば、それはそれでいいと思います。ですが、ただ売れた売れないの結果を話していてもしょうがありません。また、4000字の文章でビジネスについても触れて、哲学についても触れて、歴史についても触れて、とあらゆる要素をいれてまとまりのある文章を書くことは出来ません。
歴史について書く人がいればそれでいいのと同じように、僕はビジネスについて書く人がいるならそれはそれで良いと思っています。それぞれの書き手が自分の立場で書けばいいだけのことです。僕がビジネス以外の側面でものを見たいというのもビジネスを否定しているわけではなくて、僕が出来ること、やりたいことがそれ以外のものだからです。ビジネスの話はビジネスを知っている他の誰かがやってくれれば良いと思っています。

―批評はビジネスの邪魔にはならないのでしょうか?

邪魔というか、むしろビジネスのためになると思って僕はやっています。勿論、短期的なスパンで直接的な売り上げに繋がることはないかもしれません。しかし90年代~2000年代初頭に活躍した20471120やSHINICHIRO ARAKAWA等のブランドが忘れられてしまっているのは、批評がないからというのもそうですが、ファッションが文化的なものとして捉えられず、一時の売り上げでしか判断されなかったりするからだと思うんです。そして売り上げが落ちたら、雑誌などのメディアは別の売れるブランドへと走る。そうしてすぐにブランドがなくなってしまう。批評や文化的な視座があれば、あるいは別の形のファッション・システムがあれば、今までのブランドがビジネスをもう少し続けられていたかもしれませんし、少なくとも歴史には名前が残っていたかもしれないと思うんです。

批評は一つのシステムです。ファッションについての研究がないと批評も成立しません。鷲田清一さんが自分の哲学をベースにYohji YamamotoやComme des Garconsを論じていたように、批評の方法論になるものがないといけません。それは歴史的なものかもしれませんし、理論的なものかもしれませんしまた別のものかもしれません。批評をやる為には更にその手前の論文もきっちりと増やしていかなければいけないんです。

―今更無くなったブランド、過去のブランドを掘り起こす意味はどこにあるのでしょうか?

戦後でも良いし、御三家(Comm des Garcons, Yohji Yamamot, ISSEY MIYAKE)以降でも良いのですが今は日本のファッション史が全然書かれていない状態だと思っています。それはデザイナーの話に限ったことではありませんが、デザイナーのことすらしっかりと歴史に残っていない。そういったものをきちんと掘り起こし書いていかないと、例えばSHINICHIRO ARAKAWAの服が見たいとなった時にハイファッションの何年の何月号を探すということをしなければいけません。でも雑誌のバックナンバーはアクセシビリティがきわめて低い。公立図書館や大学図書館にファッション雑誌が保存されていることは稀なので。ですので、本としてちゃんと形に残すことは凄く大事だと思うんです。実際そういう90年代から2000年代のデザイナーがいたからこそANREALAGEみたいなブランドが出て来たわけですし、参照項がなければANREALAGEのようなブランドは出て来てなかった。例えば、アニメ・マンガ的な要素を含んだ今のブランドやスタイルにしても、20471120やbeauty:beast(ビューティービースト)がやっていたようなことを踏まえた方が僕は良いと思いますし。過去の服を知っていて今の服を見るのと知らないで今の服を見るのでは見方が全然変わってくると思うのです。その為にも歴史を作るという作業も非常に重要だと思います。

Interview & Text:Masaki Takida

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