uemulo munenoliはレディースシャツのみを扱うブランド。「ホワイトシャツという静寂の中のジオメトリック。音楽、カルチャーを含んだその時その時代を組み込んだ新しい造形。シャツのカテゴリーを超えたコンセプチュアルなコレクション。」をコンセプトにコレクションを展開している。
デザイナー上榁むねのり氏は福島県出身。大学を卒業後、内装業営業職に勤務。その後イタリアに渡り、ミラノ IEDファッションコースを
主席で卒業。CoSTUME NATIONALやJIL SANDERなどを経て2011年日本に帰国後、シャツブランド “uemulo munenoli” を立ち上げた。
―日本での最終学歴は専修大学の商学部となっていますがその頃ってファッションの道は考えなかったのですか?
そういうことを多少なりとも考えはしていましたが刺激されなかった。やりたいとは思っていたのですがそこまで行く勇気がなかった。その頃はまだ自分も意思表示が出来ていなかったんだと思います。だからとりあえず大学には行こうと思っていました。大学を卒業後内装業の営業職をしていましたがその時にもデザインに携わることはあまり考えていませんでした。そういう刺激を受けたのはイタリアに渡ってからです。
―内装業の営業職とのことでしたがインテリア等にも興味があったのでしょうか?
私が就職した会社は事務系のオフィスの内装業を手掛ける会社でした。デザイン系には元々興味があり、その会社以外に建築系の会社の面接を受けたりもしていました。でも”ファッション“ではなかったんです。
―ファッションを意識したのはイタリアに行ってからだと
イタリアではファッションだけでなく“デザイン”ということを意識しました。デザインの勉強をしようと思ったのはフィレンツェに住んでいた時なのですが、建築物の間接照明に凄く刺激を受けたんです。イタリアという国には彫刻的な建物が多い。そういうところにいると日本にいる時よりも感覚が研ぎ澄まされる感じがする。違う神経が刺激されるような気がするんです。
―そもそもなぜイタリアに行こうと思ったのでしょうか?
最初は言葉を勉強したいと思いイタリアに渡ることを決めました。私は海外旅行が好きなタイプでもないですし、なんとなく人と違うことをしたいというか、漠然とイタリアというかそういう感覚です。凄くマイペースな人間なんです。
それで語学を突き詰めたくて、最初はフィレンツェでビジネスの専門学校に通い、その後デザインを学びたいと思いミラノのブルゴ(Istitutedi ModaBurgo)という学校に行くことを決めました。ただそれも試すという意味で短期、1年間のみのコースで最初は1年で辞めようと思っていたんです。でも途中からファッションデザインにのめり込んで絵を凄く描くようになっていました。その学校は面白い学校で、課題で絵を描き、そこから形にするというものではなく絵だけを描く学校。パターンの授業もあったのですがそこでただ1年間ひたすら絵を描いていたんです。
―デザインには以前から興味はあったとのことでしたがプロダクトデザインではなくファッションデザインを選んだのはなぜでしょうか?
デザインを学びたいと思った時もファッションデザインかプロダクトデザインか迷いました。最終的にファッションデザインを選んだのは”生地“って素人ながらに思ったんです。プロダクトデザインは自分の中で何か「固いもの」という印象が強かったんです。
―1年間だけと考えていたファッションですがその後IED(Istitute di Europeo Design)にて本格的にファッションデザインを学ぶことになります。
「なんで今までファッションを勉強しなかったんだろう」って、どんどんのめり込んでいきました。”ファッション“というモノを実は怖がっていただけかもしれません。
それでブルゴを卒業する頃に雑誌GLOMOURの奨学金のコンクールがありそれに応募したら入選し、奨学金をもらえることになりました。そのコンクールは絵だけの審査でブルゴの卒業作品の絵をコンデナストのポストに入れただけで面接も何もありませんでした。その奨学金でIEDに行くことになりました。
―イタリアの学校というとドルチェ&ガッバーナを輩出したマランゴーニ(IstituteMarangoni)やリンダロッパのいるPolimoda等が有名ですがIEDという学校は初めて聞きました。
日本ではあまり馴染みのない学校かもしれませんがIEDもその2つと並びデザインの学校としてイタリアでは有名な学校です。マランゴーニはその中でも特に日本人が多い学校でしたが私自身はマランゴーニという学校が苦手でした。自分の始まりがファッションではなかったのでマランゴーニのどこかファッションファッションしている感じがちょっと苦手だったんです。
―IEDではどんなことを勉強したのでしょうか?
歴史等のセオリーから始まり、社会学、デザインのコンセプトを決めてそこから発展させるプロジェクト、それにメンズのデザイン画を描かされた記憶もあります。そこでは「デザインとは」ということを3年間かけて学んだ気がします。
―ブルゴの時のようにひたすらデザイン画を描くということをされていたのでしょうか?
IEDはデザイン画というよりコンセプトをとにかく大事にする学校でした。何を作るかという部分をとにかく深くやっていました。クリエイトする前の前提の部分、リサーチだったりが大きな仕事でした。テクニック的な部分はそれほど追求せずとにかく「デザインとは」ということをやっていた気がします。
―そこで学んだ”デザイン“とはどういったものなのでしょうか?
それは未だに模索しています。ですが頭の動きの道標のようなものを作ってくれた気はします。
―ミラノって日本にいるとお洒落な街という感覚がありますが、実際は何もない街で、なんであんなところからモードが生まれてくるんだろうって思うんですよね。街もおしゃれじゃないし、華やかな場所でもないですよね。
ですが私自身人生においてデザインを学んだのが、ミラノが最初で良かったなって思っています。もし日本でデザインを始めていたのであればパリに行きたいと思っていたと思います。実際にミラノでデザインを学んでパリには行きたいと思いましたし。
でも私がイタリアに行った頃はまだ通貨がユーロではなくリラの時代でしたので一般にイメージされるイタリアの生活でした。それがユーロに代わり全く変わった印象を受けます。それまで陽気だったイタリア人が変なところでシビアになったり。リラの時代のイタリアを知っている人は楽しみ方を知っているんですよ。
イタリアはビルも汚いしきらびやかでもないかもしれませんがディメンション的には凄く好きな国です。ミラノにいるとイタリアっていう感覚は少ないですが、フィレンツェだったりローマだったり、そういう綺麗な街に行くとイタリアに行って良かった、そう思うんです。
―なぜデザインを学んだ後、パリに行きたいと思ったのでしょうか?
パリはファッションをやり始めてから意識するようになりました。やはりパリはファッションの中心地であるということを認識していたからです。それに好きなデザイナーがパリコレに参加しているデザイナーの人が多かったのも理由です。ファッションを知れば知るほどそこでファッションを見てみたいという想いが強くなっていきました。
―その当時好きになったデザイナーとはどういう方達だったのでしょうか?
一番最初に好きになったデザイナーはThieryMugler (ティエリー・ミュグレー)で、最初に買った本がMuglerの本です。それから絵を描いていくうちに理由を考えるようになっていった。「なんでこういう絵を描くんだろう」って。ファッションのことを知らないからデコレーション系の絵を描く。ブルゴの頃に描いていた絵はオートクチュール系のデザイン画というか、デコラティブなものが多かった。でもIEDに入ってからその理由を考え始めて「デコレーションのファッションはあまり意味がないんじゃないだろうか」って。そこからISSEY MIYAKEの三宅さん等、日本のデザイナーさん達の作品に感化されたんです。入りはMuglerなんですけどそこから色々なデザイナーさんを好きになっていきました。