Kim Songhe(キム・ソンヘ)氏は 1982年1月8日生まれ。国籍は韓国。織田デザイン専門学校卒業後デザイン活動を開始。癖のある独特な感性のもと、セレクトショップ『Loveless』 『H.P.France』他のウィンドーディスプレーやパーソナルオーダーのシャンデリアなどを中心に手がけている他、ディズニーやメディコムトイなどとのコラボ商品なども手掛けている。ファッション、アートと垣根を越えた活躍をみせるKim Songhe氏の脳内回路に迫るべくインタビューを慣行した。
―キムさんは高校卒業後、服飾の専門学校で学ばれていたそうですが元々今やられているようなことを目指していたのですか?
専門学校では洋服のデザインを勉強していました。ただ「デザイナーになりたい」というのではなく、なんとなくですが空間を作るようなことがしたいと思っていました。
―小さい頃から物を作ることが好きだったのですか?
親が少し不器用な人なので、幼い頃から自分で色々作っていました。妹がいるんですけど彼女の髪の毛も小さい頃は私がずっと結んであげたりしていました。
―今の作品のテイストは小さい頃のそういった経験から形作られているんですかね?
それはあまり関係ないかもしれません。
―では今のような作風になったのはどういうことがきっかけだったんですか?
作風というか、突然思い浮かんだものなんです。
専門学校卒業後にNOZOMI ISHIGUROで働いていたのですが、NOZOMI ISHIGUROのショーの演出をされていた演出家の鈴木ひろしさんという方に凄く影響を受けています。凄く恐い人なのですがその人になぜか気に入ってもらえて、服よりも内装の仕事をやることが多くなったんです。
―NOZOMI ISHIGUROでの経験で今に活かされてることって多いですか?
そうですね。衝撃的でしたからね。
石黒さんはやりたいことをやりきるという人。それを人の目を気にせず作れているところが凄いと思います。それでいてちゃんとした服も作れますしね。やっぱりあそこで学んだことは大きいと思います。
―高校までは日本の学校で学ばれていたんですか?
東京の朝鮮学校に通っていました。
日本(東京)生まれで今は韓国籍なのですが元々は朝鮮国籍で、後から韓国に変更しました。
修学旅行で新潟からマンビョンボン号に乗って朝鮮旅行にも行ったんです。今思うとすごく貴重な体験ですね。
ただ今は、その頃仲良くしていた友達より、専門学校時代の友達と会う機会の方が多いです。アパレルやファッションに進んだ在日の友達が全然いないので。
―韓国に行ったりすることもあるのですか?
親戚も韓国にはいないので、家族に会いにとかではなく、材料の調達に年2回は行っています。
―韓国人(朝鮮人)としてのルーツを自分で感じることはありますか?
血という部分ではそうなのかなと思います。負けず嫌いという部分だったり、気性が激しいという部分だったり。
それに作品をどんどん作って、有名になりたいという想いがあります。差別というか、今までの生活の中で日本の人たちから冷たい視線で見られてきたということも正直ありますし、有名になって見返したいという想いは持っています。
―日本で生活してきていじめや差別にもあわれたこともあるんですか?
学校は朝鮮学校に通っていたので勿論なかったんですけど、電車に乗っていると制服で判断されておじさんに罵声を浴びせられたり、ということもありました。
日本名もあるのですが日本の名前ではなくキム・ソンへという名前を使っているのもそういった経験からの反骨精神からです。
―具体的に作品に反映されていると感じる部分はありますか?
私が作って来た昔の作品にはどこか毒があると言われていました。そういったことがもしかしたら関係していたのかもしれません。
―韓国籍に変えた理由はなんですか?
海外に行くのに便利だからです(笑)
―海外に行くのに便利という理由であれば、日本で生まれ育ったキムさんは日本の国籍に変えることも可能だったと思いますがなぜ韓国籍を選ばれたのでしょうか?
それはそうなのですが日本名ではなくやはり自分の名前で有名になって世界に名を知らしめたいという気持ちがあるのでキム・ソンへという名前で韓国籍で活動しています。韓国で材料を仕入れているのもやはり自分の国のものを使いたいという気持ちからなんです。
ただ自分自身はどこの国の人とか意識せず、何人でもないと思っています。作品を作るときも色んな国のものを1つにまとめて「どの国の人でもいいじゃん」というものを意識しています。
―キム•ソンへという名前が世に大きく知られたのは吉井(雄一)さんがバイヤーだった当時のLOVELESSのディスプレイをやってからだと思うのですが、まだ無名だったキムさんがどうしてやることになったんですか?
「LOVELESS」ブランドはやはり影響力が凄かったですね。あれをやったことによって色々な人に自分のことを知ってもらう良い機会になりました。
きっかけはroomsの(新人の)イエローブースで出店していたんですけど吉井さんが来て、オーダーしたいと言ってくれたんです。名刺をもらったときは震えましたね。
―初期の頃はシャンデリアだけでなく流木で作品を作っていたりもされていたようですね?
はい。HP.DECOの福岡で行なった展示は流木を使ったもので、流木にライトを付けた作品を展示しました。
あとガラスに興味があった時期もあってガラスでも作品を一から作ったりしました。
―その結果としてシャンデリアに辿り着いたという感じなのでしょうか?
そうですね、辿り着きました。
―価値のないものに価値を見出す素材使いは初期の頃から一貫している気がします?
ガラスも破片を重ねたり、ぬいぐるみも使わなくなったものを使用したり、そういうことでは一貫性はあると思います。最近では段々コラボレーションも増えてきて新しいものも使うようになりましたけど。
―それはもともとは経済的な理由から始まったのですか?それともコンセプトに基づくものですか?
もったいないじゃないですか。作品を作り始めた時期はリサイクルとか丁度流行り始めていた時期でもあったんですけど私がやっているのは全然エコとは違います。
―人がいらなくなったものに愛着があったりもするんですか?
そうですね。それを作品にして喜んでもらえればうれしいですね。