アントワープ王立芸術アカデミーを主席で卒業した坂部三樹郎氏と台湾人のシュエジェンファン氏によるブランドMIKIOSAKABE。卒業時に受けた数多のオファーを断り自身のブランドを立ち上げ僅か数年、Tokyo, Milan, Parisと世界各地でコレクションを披露し日本を代表するブランドとなったMIKIOSAKABEのデザイナー2人に話を聞いた。
-MIKIOSAKABEにおいての坂部さん(無表記またはジェンファンとの共同質問の時のみM)とジェンファン(J)さんの割分担について教えてください
僕が方向性でジェンファンがパターンやデザインを中心に作っていきます。
-坂部さんのバックグラウンド(Antwerpを主席で卒業)というのは良く知られていますがジェンファンさんのバックグラウンドについてはあまり知られていないので簡単な説明をお願いします。
J-高校から台湾でファッションの学校に行っていてそこではテクニックを主に勉強していました。その後パリに行きエスモードパリに入学しそこでクラスメイトだった坂部に出会いました。その後ベルギーに移住し私はブリュッセルのラカンブルという学校(王立学校)に行きました。
-ラカンブルという学校について少し教えてください
ブリュッセルのラカンブルを出た有名なデザイナーも結構いてOlivier TheyskensやXavier Delcour、Les Hommesなどがいます。ラカンブルが日本でなぜアントワープに比べて有名じではないかというと完全にフランス語のみの授業なんです。アントワープは英語なので。
-ジェンファンさんがラカンブルで学んだことはなんですか
J-ラカンブルは制限が多く自由があまり無い学校だったんです。だからラカンブルで学んだことというのは制限の中でどうやって自分のクリエイションをするのかということかもしれません。
-台湾を出てからクリエイションは変わりましたか
J-台湾に居た時はPRADAやVuittonなど大きなブランドしか知らなかったんです。でもフランスに行ったらこんなにもたくさんのブランドがあることを知ってびっくりしたんです。だからファッションに対する知識は増えました。ヨーロッパのクリエイションはアジアのクリエイションよりもっと自由がある気がします。台湾では一つしかなかったデザインの方法がこっちに来て人それぞれたくさんあることに気づかされました。
-ジェンファンさんはなぜ海外でデザインを学ぼうと思ったんですか
J-まず台湾の大学にそういうデザインを学ぶ学校が少なかったのが大きな理由です。ファッションの歴史もあまりない、だから海外で勉強してみようと思いました。
-坂部さんは大学時代は何を専攻されていたんですか
工学部でプログラミングをやっていました。
-大学卒業後なぜアート(セントマーチン)をやろうと思ったんですか
それの反発だと思います。(大学では)実験が多かったんです。だから自分で表現することをやりたいと思って。でセントマで出会った先生に「アートは儲からないから辞めた方が良い」って言われて。「だったら音楽とかファッションとか人と繋がりやすいことをした方が良いんじゃないか」って思って。それでファッションに方向転換しました。
-日本にもファッションの学校はたくさんありますが東京の専門学校でファッションを勉強しようとは思わなかったのですか
アートをやろうと思ってイギリスに行ってそこで立ち読みした雑誌にエスモードパリが載っていたんです。その時エスモードが日本にあるのを知らなくて。だからそこ(エスモードパリ)しか知らなかったからそこにいったんです。だから選んだわけじゃないですね。エスモードなら(ロンドンから)ユーロスターで行けると思ったので。東京だったら飛行機に乗らなければ行けないですよね。
-坂部さんはアントワープ(アカデミー)時代からジェンファンさんと二人でやっていたのですか
そうですね。手伝ってもらってました。僕の卒業後、ジェンファンはラカンブルを中退して一緒に日本に来ました。VISAの問題もあったので。
-アントワープで学んで得たことはなんですか
アントワープに行くまではクリエイションは人から習うものではないというのがどこかであったんですけどアントワープの一番凄いところはそれが習えるんですよ。ファッションのクリエイション をどうやってやるのかというのを1から習うというシステムがちゃんと出来上がってるから凄いと思います。根底にファッションデザイナーが一番必要なのはセンスより根性とも教えられました。一番大変なのは学校自体のシステムがシビアなんです。入学できるのが60人で2年生は30人しか上がれないしというのがあって。毎年落とされるので友達といえどライバルですよね。本当にデザイナーを目指している人しか出来ない。日本の学校との一番の違いはコ レクションを最高に良くするには一人でやるよりチームを作れって言われるんです。だから日本の学校だと縫製、パターン全部自分でやった方が良いという意識があると思うんですけどあそこは最終に出来上がったものの価値がデザイナーとしての価値なのでお金持ちはお金を使ってもいいし、お金が無いなら誰か助けてもらう為に動き回るというそこも平等なんですよ。学生でもデザイナーとしての目線で考えなければいけないんです。学生にとっては大変だけど学ぶことはいっぱいありますよね。
僕は簡単に言えばファッションの細かい部分は得意じゃないんです。2人でやろうと思ったのはジェンファンの方が洋服に対して才能があると思ったからです。ジェンファンがバランスを取ってくれるんです。
-ジェンファンさんはどうして2人でやろうと思ったのですか
J-エスモードで会った時から彼は他の人と違うなって思いました。学生の時からお互いにアドバイスしあってそれが2人ともうまくいっていて、だから凄く自然な流れだと思います。ブランドを一人で始めようと思ったら難しいけど2人でならうまくバランスが取れるとも思ったのです。
-2人の方向性でぶつかったりはしませんか
しますけど全体の方向性は僕が決めてしまうので。デザイン自体はジェンファンが選んでいるのが多いですね。僕がデザインした物は結構採用されない物も多いです。それはまさにラカンブルとアントワープの違いでもあって、アントワープのデザイナーって見せる方法はうまいんですけど売る物ではないんですよ。ラカンブルはもっと女性目線でのファッションを考えた学校でもあったのでジェンファンの方が着たいものという発想でも見れるんです。僕は男だしアントワープでも学んだので着たいかという部分は多少はイメージ出来ても実用的な部分ではイメージしにくいんです。そういう意味でジェンファンの方がバランス良く人が着れるという面で洋服を見れます。
-日本人と台湾人というバックボーンの違いは障害になりませんか
それはないですね。ただ好きな物が全く違うというのはあります。
-それぞれが個人でデザイナーをやろうとは思わなかったのですか
将来はあるかもしれないですね。
-二人がお互いに一人でブランドををやるとしたら違うものになるのでしょうか
全く違うものになると思います。もっと変になっちゃうと思います。多分お金とかを意識しないでやれといわれたら山縣君 (writtenafterewards)とそんなに変わらないと思います。だから2人でやることで今のバランスは保てているという感じです。この後もしMIKIOSAKABEがうまくいって2つにわけたら相当違うものになると思います。簡単に言ったら僕は世界がどういう方向に行ってるか考えるんです。時代がなぜこれを必要としているのか、時代がどうしてその方向に向かっているのかという、その集大成で考えるんです。でもジェンファンはもっと逆に、世界と繋がる為に個人的に入ってくるんです。彼女は自分の感覚だったり記憶とかに入っていってデザインをするタイプなので全く違うタイプなんです。
-2人でやっているのにブランド名がMIKIOSAKABEの理由について教えてください
僕がヨーロッパでやっていてプライズとかも取ってたんですけどその時からMIKIOSAKABEの名前でやっていたのでその名前でやった方がメディア的にやりやすかったんです。だからブランド名を立てるというよりもそのままでやった。ただそれだけの理由なんです。
-ジェンファンさんが目指していたのは今MiIKIOSAKABEでやられていることですか
J- 50:50ですね。いまやっていることはとても興味深い。彼がディレクションをやり自分は自分のやりたいこと、そしてMIKIOSAKABEでやらなければいけないことを考えながらやっています。自分だけのブランドではないので制限があるし挑戦でもあります。そういった意味でも今は2人でやることに凄く満足もしていますし充実もしています。勿論自分のブランドを立ち上げたいと思うこともありますが。ただ今はこのブランドに集中してもう少しブランド自体が確立されたら自分はもっと自由になってブランドを始めることもあるのかなと思っています。
-最初からレディースだけでということで始めたのですか
そうですね。二人ともメンズはやっていないので。
続く