Interview

坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 2/5

“デザイナーに対する評価が賛否両論あるように、批評家に対する評価も賛否両論ある。僕は正しい批評というものはないと思っている”
→坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 1/5

坂部(以下M):僕は否定的な物を載せないで批評が成り立つのかというのには不安がある。

蘆田(以下A):僕が今言っているのは僕が友人と作ろうとしてる雑誌の話なのですが、そこでやろうとしてるのは場をつくることであり、狭い意味の批評ではないんです。批評ってブランドに対して書くとか、デザイナーに対して書くことだと思っていると思いますが、僕らがやろうとしていることは今のことだけではなくて過去の歴史の共有、そういうことも含めてですね。

M:知識をちゃんとみんなに残していくことって凄く大事だと思うんですけど、批評の存在を蘆田さんはどう形にしていきたいんですか。

A:僕はさっきも言ったように批評というのは一つのシステムだと思っていて、そのシステムが今すぐ確立出来ることではないと思っている。批評のシステムを作るというのはファッションの年に2回のコレクションシステムを変えるということと同じくらい大変なことだし、僕は10年、20年、30年後のことを考えている。その時に今よりも東京が良くなるように今出来ることを少しずつやっていく。坂部さんが前回Chim↑Pomと一緒にやり、今回はでんぱ組と一緒にやったことも試行錯誤の繰り返しだと思うんです。それと同じで、今最初にコンテンツとして考えてることが批評のシステムを作る為に最も適切なものかと問われたら、それが正しいという自信はない。でもこういうことは必要かなってことを少しずつやり、これは違うとか、ちょっとこうするべきかなっていう試行錯誤を繰り返すしかないと思うんです。なので坂部さんから見たら、僕がやってることは凄く中途半端に見えるような事も出てくると思います。

M:試行錯誤なのはわかる。ただ、30年後を考えたとしてその途中で出てくるリスク、試行錯誤中に生まれるものがどういう方向に進むのだろうか。そこは完成したものではないから、蘆田さんにとって評価して欲しくないところだと思うのですが、途中であっても人はその文章を見て、何かを思いどこかに向かっていく。だからそこでの責任はある。完成したものではないと言っても、公表してしまったら、責任は全部書いた人にあると僕は思う。そこをどうやってフォローしていくのかというのも大事な気がする。

A:それは例えば批評家が今色々な意見を言ったとする。それが10年後、20年後に振り返られて見られた時に、「その人が言ってる事はちょっとおかしいよね」と思われたとしたら、その人の批評の信用度がなくなる、駄目な批評家と見なされるだけのことで、それは問題にならないと思います。平川さんがあれだけいろいろ褒めたりけなしたりして、平川さんの批評に対して問題視する人がいてもあれだけ注目されるということは評価する人もそれだけいるということですよね。それで別に僕は良いと思うんですよ。デザイナーに対する評価が賛否両論あるように、批評家に対する評価も賛否両論ある。僕はさっき言ったように正しい批評というものはないと思っている。ただ批評家が「僕はこういう基準に立ってモノを見ます」と言って、それにのった時に、その人が言ってる事が妥当かどうか。例えば、洋服をパターンだけを見て評価する、パターンをうまく作れているかどうかというのを評価したいという批評家がいたとする。まずはその人の基準が大事でその人にとっての基準がパターン。その基準にのってその人の書いていることを読んでヨウジヤマモトはこうであり、サカベミキオはこうだって言った時に、パターンを知ってる人が納得できれば、それは僕は良い批評だと思うんですよ。

M:でも、そこまでいくと批評家の存在自体がわからなくなってしまう。良い方向も悪い方向も50:50でみたいな話になってしまう。色んな人がいて、色んな方向があって、それを見れればいい。でも例えば、凄くクリエーションを未来に繋ぐデザイナーがいる、逆にもっとコマーシャル的でコピーばかりしてるデザイナーがいるとする。批評家という存在がその2人に対する評価を間違えたせいで、コピーデザイナーがどんどん売れて、日本のファッションの歴史が遅れるという可能性もあり得る。でも、そこで批評家も間違えて当然という考えは責任感がないと思う。途中経過だからというのはわかるのですが。

A:間違えて当然とは思っていませんが途中経過とかではなく批評家は常に自分の意見に対して責任を持つべきだと思っています。

M:ただ信用度が結果として表れないまま根本的に間違った方向に行くこともあると思うんです。

A:それを指摘出来る人が他にいるのであれば、僕はそれで良いと思います。

M:それはいたらの話ですよね。いなければ批評家という存在が逆に歴史を遅らせてしまう可能性が出てきてしまう。

A:僕は批評家は数がいれば、それでいいと思っています。
今はそのシステムが成り立っていないから、僕は20、30年後にちゃんとそれがシステムとして、完全にうまく回らないまでも、今より良い状況を作れるようにしたい。それでも批評を書きたいと思った人が載せられる場が一つでもあるというのが凄くプラスだと思うし、今回のChangefashionの企画もそう、ああいったものが少しずつ色々なところでどんどん出てきたら良いと思うんです。美術であればそういうものがいっぱいあるし、音楽もいっぱいある。そういうのがファッションでもどんどん出てきたらいいなって思う。その一つでしかないんです。だから僕一人がとか、平川さん一人がとか、他の誰か一人が絶対に正しいとかこの人が社会を変えていけるだとかは今の時代ではありえない。それは50年前だったら、もしかしたら可能だったかもしれない。今はtwitterやブログで誰でも意見が言え、それが一瞬で広がったりする。そんな中で一人の批評家の意見がどこまで社会を変えることが出来るかと考えたらそれは難しいことだと思います。

M:人数だけの問題じゃなくて、そこから派生してまで考えると可能性としてはないとも言えない。もともとあったよりも単純じゃないと思う。それはあってる、あってないの判断は個人で、twitter見たら、同じ意見の人もいるから一人の人の意見を鵜呑みにする世の中は完全にない。
ただ批評自体の存在は、特に日本においてファッション界では干されてしまうという現実はある。やっぱりアートと違い、ビジネスが絡んできて、その両方を批評の中にいれるのは不可能だったと思うんですよ。やっぱり批評する部分はクリエーションの部分だし、ファッションの文脈。そこでビジネスでTシャツを作って売っていますと書いたところで、そこは純粋なクリエーションじゃないという批評にしかならない。そこを混ぜて総合点じゃないと出来ない。両方の総合でこのブランドは1番素晴らしいみたいな意見って凄く難しい。実際コピーしたブランドの方がビジネス的に良かったりするけど、クリエーション的には一番良くなかったりする。でもその両方を足せるっていうのはありえるのか?というところはある。批評とファッションはバランス的に難しい。アートであれば、もうちょっと簡単だと思うんですよ。ただファッションになると二極が大事で、二極を評価しないと評価にならない部分も正直ある。

A:売れる売れないで考えた時の評価というのは売上に直に結びつくことですよね。このブランドはこれだけ売上があるから、年商何億円あるから勝ち組、負け組みたいなのが出来る。批評というのはそれ以外の部分で評価をすることだと思うんです。

コメントは停止中です。