Interview

CHRISTIAN DADA 森川マサノリ 2/6

シャルルの下では抜き方を教えてもらったというか。例えば日本だとこの組み合わせは100%ないけど向こうだったらありとか。美術的なものを○とする感覚がそこでようやく馴染んできたと思います

→CHRISTIAN DADA 森川マサノリ 1/6

―東京に上京後はFAD3の企画をされていたそうですがなぜFAD3だったのでしょうか

そこの会社の取り扱いブランドを着ていたわけでもなかったですし、特別入りたかったということではありません。単純に就職しないとまずかった。最初は販売員で募集していて受けたのですが、裸にジャケット、それにニーハイブーツみたいな恰好で面接に行ったので「あなたには販売員は難しい」と言われたのを覚えています。それで落ちたと思ったら「企画でどうですか」と言ってくれて。Luciole jean pierreのデザイナーの大塩君も僕と同期入社なのですがミサンガを大量に付けて、マニキュアをピンクに塗って、髪も三つ編みでシノラーみたいな恰好だった。単純に目立つ2人を獲ったのかなって振り返るとそう思いますね。

―その当時は原宿界隈のストリートが凄く脚光を浴びていた時期だと思います。森川さん自身もtune等のスナップ雑誌にZOO(ズ‐)として頻繁に掲載されストリートから絶大な支持を受けていたと聞きます

雑誌には良く載せてもらいました。ストリートが凄く盛り上がっていた時代だと思います。勤務地が原宿だったのですが休憩時間にはわざわざ表参道のローソン前やGAP前でご飯食べたりして、昔のホコテンみたいなノリだったのかもしれません。

―みんなで集まっておしゃれな友達を増やして情報交換をしたりしていたのでしょうか

今だから言えますけどTEPPEI(スタイリスト)とDOG、僕とMASA(中島正博/スタイリスト)だったり、奈良君と美容師の人達、それにbanal chic bizarreの中川君だったりそういうトライブがあって、陰では凄く対立したと思います。「あいつのファッションださくない?」みたいな。
でもそれって今思うと凄くもったいないことしてたなって思うんです。当時は第二次裏原ブームみたいな感じで凄くストリートが盛り上がっていた。第一次は藤原ヒロシさんだったり中立の立場でメディエイター(媒介者)がいた。昔でいうとマルコム(マクラーレン)みたいな。時代性もあったのかもしれないけど僕らの時は個々のアイデンティティを出しすぎて反発していたんです。そうしているうちに結局ブームが終わってしまった。あの時にみんなをまとめることが出来ていたら何か面白いことが出来ていたのかなって凄く思いますね。単純にアイコンとしてだけで終わってしまったので。

―自分でもファッションリーダーとしての意識はあったのでしょうか

自分では2chとかそういう物は見ないようにしていたのでわかりませんが人からは「あの頃の影響力は凄かった」とは言われます。上の世代の人達にも「もったいない」って。最近になってJuvenile Hall Rollcallの入江さんにも「あの頃絶対何か出来たのに、もったいない。ざまーみろ」とも言われましたし。

―今は原宿という街自体にそれほど求心力がないように感じますしね

そうですね。着飾る場がなくなってしまったと思いますね。その「場所」としてのインフラが崩壊して、今はフラットになってしまったという印象は受けてしまいます。

―その後ロンドンに留学するのですがなぜロンドンだったのでしょうか

前から行きたかったのですが裕福な家系ではなかったので行けなかったんです。ただ社会人も経験し少しお金も溜まったし、一緒に行く友達も出来たので行ってみようかなって。単純に住んでみたいという憧れと、ロンドンには行けても(セントマーチンズやLondon College of Fashionなどの)大学に行くお金は無かったのでそういうところで勉強できない代わりに誰かの下でアシスタントをやってみたかったんです。僕も行けるのであれば大学で勉強してみたかった、そういうところで勉強できる人が羨ましかったですね。

―ロンドンではCharles Anastase(シャルル・アナスタス)のアシスタントをされていましたがなぜ彼だったのでしょうか

服を作っていたのは当時あまり知りませんでしたがA.P.Cのイラスト等を手掛けていたので彼の存在は知っていました。僕もグラフィックもやっていたのでそういうことを学べたら良いなって。それで調べたら服も作っていてそれが面白かったんです。ウェブサイトを見てコンタクト先に無理やり作品(絵とグラフィックとFAD3の時のルックブック)とCV(履歴書)を送りつけたんです。そしたらシャルルから「会ってみよう」って。丁度アシスタント居なくなった時でタイミングも良かったと思います。

―シャルルの下ではどんなことをしていたんですか

僕が入ったシーズンにはパリコレに参加してたのですがパリコレの直前は一緒に住んでいました。完全なるアシスタントで、猫の世話もしたし、パターンもしましたし、テキスタイルにも携わったし、グラフィックもしました。それに当時は日本企画のものもやっていたのでそれも手伝ったりしました。クレジットカードやキャッシュカードも管理してましたしね笑
出来なかったという点では数字の部分だけだと思います。それ以外は本当に常に一緒にいましたし。右腕のオリヴィエという人がいたのですが彼の家に3人で泊って、3人で出社してっていう生活で。今はブランドも少し大きくなったんですけど僕がいた頃は本当に小さいブランドだったので友達みたいな感覚でやれたんでしょうね。大手メゾンでアシスタントをしていた人よりは色々出来たと思います。
当時は彼っぽくやったりもしたんですけど結局彼自体小学校4年生くらいの女の子なのであの感覚は僕には出せない、そう思っていました。

―2人の絵のタッチには共通している部分があるのかなと思います

その部分はそうかもしれません。彼も僕の絵は褒めてくれていましたし。ただ僕の方がもう少し日本っぽいというか、アニメっぽいと言うか。だから初日から割とすぐにグラフィックもやらせてくれたんだと思います。ヴィンテージの生地から花をぬいてブリコラージュさせたりとか、グラフィックと感じさせないグラフィックをやったり。結局彼自体がダークファンタジーなものが好きなのでそうなるんです。インスピレーションを得るものもフランスの童話とかそういうものが多かったです。

―ショーのやり方等もそこで学んだのですか

ショーのまわしかたとか、感覚的な部分だったり、そういうことは凄く学んだ気がします。日本だとサンプルでもしっかり縫わなければいけないという考え方ですがそこは全然違った。パッケージングもうまいし作業のフィニッシング(仕上げ)の違いとかはありましたね。

―イメージ作りの面でも影響を受けているんですか

それまで日本らしいきっちりとした工業ファッションみたいな事を学んできた。でもシャルルの下では抜き方を教えてもらったというか。例えば日本だとこの組み合わせは100%ないけど向こうだったらありとか。工芸的なものと美術的なものの違いというのが凄くあった。日本は工芸的なモノに特化していると思うのですが、美術的なものを○とする感覚がそこでようやく馴染んできたと思います。

―2年程Charles Anastaseで働いた後、日本に帰国しました。帰国することになった理由はなんだったんですか

単純にお金が尽きてしまったというのが理由です。ロンドンにもう後数カ月しかいれないということがわかってから将来のことを考え始めたんです。
結局帰る直前にはブランドをやろうかなって。それで親から少しお金を借りて友人と一緒に帰国後すぐにブランドLIVRAISON(リブレゾン)を始めました。

―なぜ友人とブランドをやることにしたのですか

元々友達だったんですけど当時の僕は人とうまくコミュニケーションが取れなかった。彼は販売員だったので営業や経理の面も任せることが出来る。自分がやれない部分を持っている、そう思ったんです。やり始めた時は感覚が全く違うからこそ上手く行くと思っていた。でもそうではなかった。
4シーズン目からは3人になり、あまり僕の作りたい物を作ることが出来なくなっていった。その頃からだんだんその後のことを考えるようになってきて、結局4シーズンで僕はリブレゾンを抜けることにしたんです。

―リブレゾンをやっていた頃ってストリートのファッションリーダーだった影響力ってまだあったと思いますか

自分ではわかりませんがもうほとんど影響力はなかったと思います。それに僕自身もそれを売りにはしたくないと思っていました。シャルルのところでもズ‐という名前を使っていたのでリブレゾンもその名前でやっていましたが。でもCHRISTIAN DADAをやるタイミングで本名の「森川マサノリ」でやっています。

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