“卒業コレクションは辺口さんと一緒に作ったのですが、その時に付けたブランド名が「ヌケメ」です。辺口さんが20個くらい考えてくれた名前案の一つでした”
―ファッションの情報はどこでいれていたんですか
ネットですね。あとは古い雑誌を後から買ったり、大阪に行ってから色んな人に話を聞いたりだとか。基本的には全て後追いです。
―今では当たり前になったけどstyle.com以前はネットに洋服の情報が載ることは考えられなかったですからね
そうですね。東京のブランドは相変わらずアーカイビングされてないのが残念ですけど。そういうのが完全にアーカイビングされたらいいなって思います。本当に小さい周辺情報まで拾って全て年表みたいにしてほしいですね。
ネットだと、style.comやfirstviewそれにshowstudioはよく見ていました。気に入った画像をとにかく保存しまくって、HDに保存してました。いつの間にか集めなくなっちゃったですけど、5万枚くらいはあったと思います。
雑誌も今はそんなに見ていないですけど、その頃はほとんどの雑誌を見ていました。全部と言ってもよいくらい立ち読みで。服部さんがディレクションしてた時期の流行通信は好きでそれは買ってみたり、ミスターハイファッションも買っていました。STUDIO VOICEがたまにやるファッション特集とかも印象に残っています。あとは単純に写真が好きなもので、洋雑誌とか。
―専門学校時代はどんなファッションが好きだったんですか
専門に入ってからは、どちらかというとだんだん買わなくなっていった気がします。自分で作ったりするようになって、デザイナーズを着るということ自体がだんだんしっくり来なくなって。それでもどうしても好きなものを見つけたら買ったりしてましたけど、パッと見た時に「それ、どこのブランドだよね」ってわかられる気がして嫌で、プレーンなものを選んだりとか。気にし過ぎなんですよね。
でも古着って感じでもなく、軍モノのデッドストックを着たりしてました。
―コレクションブランドが好きだったようですが結果的に今のようなテイストになったのはなぜでしょうか
それは大阪の街と、今までヌケメで作ったものに関しては辺口さんの影響が強いです。洋服に辺口さんの作品が重なる、っていうことが前提だったので。
―元々はコレクションブランド系を目指していたんですか
目指していたっていうか、元々好きなのはそうですね。そっちへの興味で始まってるので。でも音楽と一緒でそれがひっくり返った時があったんですよね。なんでもいいっていうか。
なので別に、東コレに出たい、とか、パリコレに、とかそういうのでもないですね。
―専門学校当時はどんなファッションが流行っていたんですか
僕が専門に入学したのが2005年なので、当時流行ってたのはHedi Slimane(Dior Homme)とか。みんなぴたぴたのパンツをはいて、革靴をスニーカーに履き替えた時期、みたいな。丈の短いジャケットとか。
―確かに。今はもうあそこまでショート丈のジャケットは着れないですね
あれは時代を反映しすぎてますよね。Hedi Slimane全盛で、でもBernhardも同時に盛り上がってて。その前の年ですけど、Tom FordがGucciを辞めたのも覚えてます。Dior Hommeは、意外と型紙が特徴的な服だなと思ってました。
―Hedi Slimaneがやめる時は衝撃的でしたからね。メンズファッション界の一つの時代の終焉というか
そうですね。パリでやってた写真展も見ました。当時、Dior Hommeは買えないけど、自分で細いパンツ作ったりして、それはよく履いてました。
―ファッションデザイナーを意識したのはいつ頃ですか
“デザイナー”という言葉にはなんとなく違和感があって。プロフィールとしても”ファッション”とだけしたくて”デザイナー”はとりたいんですけど、意味をわかってもらえなくて。「デザイナーでしょ」って言われたら「まあそうですね」的な感じで。
―ではファッション好きという肩書きはどうですか
ファッション好きはまずいですね。急にステージ降りちゃったじゃないですか。完全に受け手側っていうか。それも面白いのかな。
学校に行っていた時は型紙作ったり縫製したりしている方が好きだったんです。デザイン画を描くのはあまり楽しくなくて。
ヌケメ 卒業コレクションより
―卒業作品ではそれ以前に好きだったデザイナーブランドからは既に離れていますね
そうですね。結局一緒だよ、って気持ちもあるんですけど。でも意識して感覚変えてました。それまでは割と可愛い服というか、ぼわっとしたシルエットの服とかを作っていたので。
卒業コレクションは辺口さんと一緒に作ったのですが、やるとなった時にアイデアを出し合って「こんな服作りましょう」っていうその中で出来上がっていったものです。かなり辺口さんの世界観が強く出ているのですが、そこだけにはならず僕がそこをちょっとゆがめているような感じ。その時に付けたブランド名が「ヌケメ」です。辺口さんが20個くらい考えてくれた名前案の一つでした。
―その他の候補にはどんなものがあったんですか
全然覚えてないです。辺口さんも多分覚えていないと思います。ヌケメにしたのはアルファベットにした時の字面も良いなと思ったからです。
―辺口さんもヌケメの一人であるということでしょうか
がっつり一緒にやっているというよりは作品を提供してもらって、辺口さんの世界観を前提として持ちながらも僕が勝手にやってる感じですね。「こんなことします」とか、結構事後報告に近いです。
―卒業コレクションの評価はどうだったんですか
ボロクソですね。「こんなの駄目だ」って怒られたし、「卒業させない」とも言われました。それは僕が提出すべきポートフォリオをちゃんとしたフォーマットで作らなかったからなんですけど。洋服作っている時も先生とケンカしてチェックすべき時にちゃんといかなかったんですよね。自分としては真面目にやっていたんですけど、先生と折り合いがつかなかったんです。
―卒業後の進路はどう考えていたんですか
卒業する時には既に東京に行くことは決めていたので、2008年の3月に卒業して、4月に東京に来ました。その後はNozomi Ishiguroのショーのお手伝いを少しだけさせてもらったり、知人の紹介で知り合った方の会社にお世話になった時期もあったり、atoで縫製バイトのようなことをしてみたりしながら、ヌケメの展示をしたり物販したりしていました。
―ヌケメを代表するヌケメ帽が生まれたのは卒業後だと思いますがなぜ帽子を作ることになったんですか
服を作るのが時間がかかりすぎたので、もっと新しいものをどんどん作れるようなやり方でやろうということで、帽子に辺口さんの言葉をのせるアイデアを辺口さんが出したんです。それで僕が実際に帽子と文字組みを用意してそれを刺繍工場に発注して、「文字をこのくらいの大きさでここからここまでを均等割で、針はこのくらい打ち込んでください」という詳細を詰めてサンプルを作って、最初に展示という形で発表したのは2008年末にあったCET08 (CENTRAL EAST TOKYO 2008)ですね。誘ってくれたのはMASSAGEという雑誌を作っている編集者の庄野さんという方で、MASSAGEブース内でのグループ展みたいな形で参加しました。
―今現在は帽子の色も文字の色も一色のみですが違う色を出す予定はないのでしょうか
今のところないです。黒にシルバーがしっくり来ているので。これに関してはあまり色々やらないことにしています。言葉のパターンも今はもう種類を増やしてなくて、商品化しなかった欠番を含めて60種類程で止まっています。
―欠番になったものはどんな理由があるんですか
複数のフォントを組み合わせたもので、作っただけで売らなかったんです。しっくりこなくて発表もしなかった。どれが好きかと言われたら自分で被っている「バリアフリー」がしっくりきています。
―それだけ種類があってそれぞれの文字で人気に偏りはあるんですか
若干あるんですけど、ほとんど偏りはないです。その若干というのは例えば快快(faifai)の篠田さんがずっと被ってくれてた「しびれたままごはん」とかで、ある時期ほかより売れていた気がします。あと雑誌のfruitsに「暴かれたい」を被っている人がスナップで載ったらそれが売れたりとか。でも同じ言葉でも「あの人は似合うけどこの人は似合わない」みたいなことが起こってくるので、結局はほとんど偏りがないですね。それぞれ似合うものが違うみたいで。
―どの文字の帽子を置くのかはお店側が選んでるのですか、それともヌケメさんが選んでいるんですか
基本は僕が勝手に選んで持っていったものをそのまま置いてもらっています。お客さんから「あれが欲しいんですけど」というリクエストが入った時は別ですけど。置いているものと被らない範囲で僕が選んでいます。
―今日も被っていますが気分は「バリアフリー」なんですか
「バリアフリー」は気に入っていますね。
―自分では何種類くらい被っているんですか
「バリアフリー」と「ケバいカタログ」の2種類です。
―ヌケメ帽はメッセージを伝える為の帽子でもあるのでしょうか
メディアです、とは言ってますけど、メッセージ、となるとちょっと違う気もします。でも被っている人がそう思っているのなら、例えば「暴かれたい」と思っているとか、そういうものでもあるかもしれない、って感じです。