Interview

批評:POTTO “ワイルドスタイルとか恐山”

「自由であること、心地よく暮らせること、DIYであること」をコンセプトにクリエイショ ンをしているPOTTOによるおよそ5年振りのショー “ワイルドスタイルとか恐山”が6月10日原宿VACANTにて行われた。
“一人に一つの旗 一人に一着の服 みんながそれぞれ好きな事をして それで調和して生きている世界 モデルが先にいて、一人一人のために それぞれに似合う服を 一着づつ作りました。”(リリースより)
植物図鑑を眺める人、メガホンを持って歌う人、パンを切る人、おもちゃの太鼓をたたく人、ハーモニカを吹く人、、、彼らはそれぞれのカルマを表現していた。

今回は長見氏、小竹氏、高城氏の3名のコレクション評を掲載している。

→POTTO “ワイルドスタイルとか恐山” (Show)
→POTTO “ワイルドスタイルとか恐山” 1/4 →POTTO “ワイルドスタイルとか恐山” 2/4 →POTTO “ワイルドスタイルとか恐山” 3/4 →POTTO “ワイルドスタイルとか恐山” 4/4 (Interview)

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会場を後にしてまず、否定的な指摘を向けることが全く野暮になって打ち消されてしまう、
強度のあるプレゼンテーションだなぁという印象が大きく残りました。
実際にショー後のtwitter「potto」サーチTLにおいても、幸せな空間だった、ほっこりした、
と服や服のプレゼンテーションを飛び越えた目線でショーを評価するツイートが目立っていました。

あれだけの人入りにもかかわらず窮屈な不快感なく、場の多幸感を作り出した大きな要素のひとつに、
多様な仕草(カルマ)をもった演者の人選が、見に来る人(pottoのお客さんや業界関係者など、演者との距離がもともと近い人が多かったように思う)
との関係を踏まえ、うまくセッティングされていたことがあったと思います。
これは演者をtwitterや身の周りから募っていたことも踏まえると、
シンプルにpotto/山本さんの人望、求心力が自然と引きあわせたバランスなのかもしれません。
コミュニケーションの枝は拡がりやすく、結果的に演者と来場者の関係は曖昧になって、
会場全体でひとつのプレゼンテーションが熟成していたような、そんな印象を受けました。

学生のころなんとか立見で入れてもらったファッションショーで、
ランウェイが始まる前のざわついた高揚感のある空気が本番と同じくらい好きでした。
あの空気はpottoのショーで体験したものと似ているところがあって、
その点においてファッションイベントの核心的な魅力の一面を、より開かれた場所で何時間も精製し続けていたことは素晴らしかったです。

肝心の服については上述の独特な空気がカモフラージュとなってしまい、
よくも悪くもあの場の前提として機能していたのではないでしょうか。
作品そのものに焦点を合わせづらかったことは作り手目線に残念ではありましたが、
ショーの誰でも入れるという設定には、既存のファッションショーと明確に目的のズレがあるし、それも野暮な見方なのかと思ってしまいます。

モデルの私物や、作品を積極的にスタイルにとりいれているという話は後で知ったのですが、
それらはpottoの服と並んでブランド「potto」を形作っていたように思います。
ファッションブランドの意味そのものに拡がりを感じ、大変勉強になる機会でした。

長見 佳祐 / ハトラ

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抵抗と無頼、反体制、あるいはマイノリティのアイデンティティの表示、少なくとも初めパンクやヒップホップファッションが持っていたような、権力に対する抵抗する力としてのファッションではない「DIY」を感じました。
日常とは切り離せないもの。ある一時期の感性が作り出す相対的な美がファッションの身上であること。文化的、社会的、政治的コンテクストの内部において捉えようとする美意識。生活芸術としてのファッション。
POTTO SHOPに行けば納得します。そこに行って山本さんと話すことで。あの日のVACANTは恵比寿のその場所と地続きだと思います。山本さんはご自身のフレームをしっかりもっているから、なにをしても山本さんです。そういうことをご自身でよくわかってらっしゃる。
平川武治氏のおっしゃる「新当たり前主義」をずっと当たり前に続けてきた山本さんだから、必然でそうなっていると思うし、対話が出来る人だから、一人間対一人間で対話することで完成するものだったりもすると思います。
「新しい酒は新しい酒袋に」ってことですよね。

小竹 一樹 / VEVEROPPARUUU

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POTTOのショーは、一言でいうと「気負いのないショー」だった。 
ファッションショーとしては一般的でない形式をとっていたにも関わらず、むしろそうであるからこそ、ショー以外の活動のなかで形作られてきた「POTTO」が、率直な形で表現された空間となっていた。

近年、また直近では震災の影響もあり、ランウェイショーという形式に疑問の声が上がりつつあるなか、ファッションショーの枠組みを再考させるような取り組みをするブランドが登場し始めている。しかし、そのような取り組みと、衣服を制作してその世界観を観ている者に伝えることを両立できているブランドは、まだ無いように思われる。また、従来のランウェイショー形式でコレクション発表を行っているブランドも、ランウェイショーがそのコレクションにとって最適なプレゼン方法だ、と言い切れるものばかりではない。
そのようななか、POTTOのショーは、ランウェイショーに捉われることなく、また、ファッションショーの枠組みの再考というような概念にも捉われることなく、POTTOの衣服とその世界観を表現するために最適な方法を、非常に自然なかたちで採用していた。
これは、デザイナーの山本氏が、ファッションショーとは何か、ファッションと他分野の融合といったある種ジャーナリスティックな視点や、コレクションごとにテーマを掲げ衣服に落とし込むというファッション業界独特のサイクルに左右されず、「自由であること、心地よく暮らせること、DIYであること」というコンセプトに忠実に、それらを適切に表現できる手法を突き詰めた結果であろう。テーマ先行型になることも、かといって既存の方式に縛られることもなく、ごく自然体で自らのコンセプトを貫くことは、お店という場をもち、今回のショーがそうであったように、常にお客さんと向かい合い、個々人の要望やライフスタイルに合った衣服を制作しているPOTTOだからこそ、実現できたことのように思われる。

 また、モデルそれぞれが自分のために作られた衣服を着て、自らの「カルマ」を遂行する姿は、ファッション・システムや流行とは関係ないところで衣服は衣服として存在し、誰かの生活や記憶を付加されることで価値を持ち得るのだ、ということも思い起こさせた。例えばアウグスト・ザンダーの写真のなかの農夫のシャツがそうであるように、衣服は個人に属していて、その人に属さなければ持ち得なかった意味づけを、誰が所有しても必ず持つことになる。それは、ファッションとは全く関係のないように見えて、ファッション・システムの始まりがオートクチュールだったことを考えると、ファッションの根幹に関わることである。そして、POTTOの制作活動は、ファッション・システムには依存せず、DIYというオートクチュール的な手法を用いて、個人と衣服を結びつけることで、ファッションを創っていくものである、と感じている。

 山本氏は、またショーをやる旨、同サイト上に掲載されているインタビューで明言しているが、今後もショーの形式に捉われず、POTTOの制作活動やコンセプトが真っ直ぐに伝わってくるショーが行われていくことを期待したいと思う。

高城 梨理世

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