Interview

Kentaro Tamai / ASEEDONCLOUD 4/8

“着ぐるみじゃないですけどwrittenafterwardsという中でお互い遠慮しあってものを作っていたんだと思います”

―一番最初にその話(ヨーロッパからの新人たち展)を提案してからどのくらいの時間がかかったんですか。すぐに話は動いたんですか

すぐじゃなかったですね。21_21の話は最終的に太田さんから話があったんですけどそこまで行くのにも凄く時間がかかりましたし色々紆余曲折してそういう提案をして頂いて「是非やりたいです」ということで21_21のコーディネーターを絡めてやっていったんですけど僕らがやりたいことが資金的に難しいということを凄く言われて、その中でもいかに個々の表現をパワーとして出せるかというのを考えていた結果があの21_21での展示でした。

―展示だけでなくゲリラショーという形でファッションショーもやれましたしね

そうですね。完成されたものではないですけど形としては面白かったと思います。特に21_21の展示は今考えても良かったと思います。ほんとに色んな人に支援してもらってやれたものだったと思います。

―初コレクションのレスポンスはどうでしたか

新人にしては凄く良かったんじゃないですかね。メディアもそうだし、バイヤーさんにしてもそうですしいきなり色んな人に出会えたので凄く大きかったですね。

―1組だけじゃなくて多数でやったというのも大きかったんでしょうね

そうですね。1組じゃなかったのは大きいですね。個々でやってもそれぞれみんな考えてやっているのでそれなりの結果は出していたと思うんですけど。でもグループでやったことが良い結果につながったと思います。

―一番最初のコレクションは山縣さん、玉井さん、どちら寄りのコレクションだったんですか

元々世界観を作るのは山縣の仕事だったので明確な役割分担というのは無かったんです。常に一緒に行動していましたし、一緒に打ち合わせに出ていましたしこの仕事が誰の仕事というのは無かったですね。山縣がぽっと出したものに対して連想ゲームみたいな感じで作っていった感じですね。

―最初は全て2人で一緒にコレクションを作り上げっていったということですね

そうですね。(ファーストの)コレクション直前くらいで僕は倒れてしまったのでそこから多少山縣に甘える形にはなっていたんですけどものの表現としては後に続くものに比べたら半々に近いものかなと思います。

―ファーストコレクションはしっかりとした洋服、リアルクローズでしたね

洋服ですね。一般的な発想で言うリアルクローズでしたね。

―今とはまた表面的には全然違う世界観だったのを覚えています

今でもああいう世界観を多分お互い好きだと思います。でも綺麗でしたよね、まだ。ほんと個人的というか、コミュニケーションを取ろうという形よりも自分達の好きな服の形で出していたと思いますね。

―コレクションを重ねるごとに一番変わっていった部分はどこだと思いますか、勿論見る側にしたら明らかな表現の違いは伝わってくるんですが

個人的にはそんなに変わったつもりはないんです。でも山縣が表現する割合、山縣の世界観が徐々に強くなっていった部分はありますね。

―それは玉井さん自身が自分を抑えていたのでしょうか

良く言えば抑えたというのかもしれないですが抑えていたわけではないと思います。山縣の才能に惚れていたので。ブランドとして表現する方法として山縣の世界観を出した方が面白くなると思っていましたが良くも悪くも山縣に甘えていた部分があると思います。山縣サイドの考えはわからないですけど僕の考えとしてはそうですね。

―自分自身の個性はwrittenafterwardsの中ではどんどん薄れていったと

山縣はその中で僕の個性を一生懸命引き出そうとブランドコンセプトなど考えていましたけど僕がどんどん出来なくなっていったと思いますね。

―それを明確に感じたのはいつ頃ですか

ファーストコレクションを終わったあたりから多少なりともあったんですけどもう走りだしちゃっていてどこかしがみつかなければいけない部分もありました。でも常々思っていましたね。「自分がデザイナーとしてこのままでいいのか」という想いを持ちつつもどこかで自分のポジションを見つけてこのwrittenafterwardsという世界観を噛み砕いて服に落とし込まなきゃいけないという考えはあったんですけどそれをどう落とし込むのかというのをずっと悩んでいましたね。

―まわりにもそういう部分は伝わっていたんですかね、山縣さんぽいデザインだねとか

あると思いますよ。特に山縣の裸の王様などの作品を知っている方に関しては見てて「あ、どんどんっぽくなってきたね」って思っていたと思います。ただPrince Prince Princeの時にシャツを作ったじゃないですか。あの時は山縣なりに僕に表現できる方法ということでメンズシャツをユニセックスに落とし込むという方法論を考えたんです。僕もMargaretで働いていたというのもあってシャツというものにはある程度自信を持っていたのでそこでシャツコレクションとしてどう落とし込むか色々考えてもの作りはしていました。

―それまではショーをやっていなかったんですがなぜあのコレクションではショーをやろうと思ったのですか

多分ものの見せ方としてインスタレーションという表現なんですけどあの時の表現方法としてあれが一番面白いというか。ショーをやらなければいけないからああいう表現になったというよりもああいう表現をしたかったから必然的にショーになったというかパフォーマンスになった感じですね。

―コレクションを重ねるごとに自分の立ち位置がどんどんわからなくなっていった感じですか

そうですね。デザイナーとしての自分の役割は完全に見失いつつありましたね。

―writtenafterwardsを抜けようと思ったのはいつ頃なんですか

実際話をしだしたのはPrince Prince Princeの展示が終わってすぐですね。その時に山縣と話をして彼からも色々話を聞いて2人でずっと話しこんで「このまま行く方法もあるけど別々でちゃんとそれぞれの物作りに向き合った方がいい、それはいまだから出来るんじゃないか」という話になって。流れ的にwrittenafterwardsは山縣の世界観に任せている部分があったので自分ではwrittenafterwardsは続けていく気はなくて、別々になるならwrittenafterwardsは山縣が続けていくべきだなと思っていました。

―そのことを直接伝えたんですか

言いました。正直writtenafterwards好きですしブランド名が消えて欲しくなかったんですよ。だから「正直(ブランドを)なくしたくない。だから(writtenafterwardsを)やってくれ」ということは実際伝えました。自分がどうしようとか何もなかったしその時まだ自分が抜けるということが想像つかなくて、いきなりぽっかり穴があいた感じでした。でも何も計画なかったですけど実際自分のデザイナーとしての立ち位置もわからなくなっていましたし、もう一回自分がデザイナーとして今後やっていく上ではもう一度一人になって自分を見つめ直さなきゃいけないだろうなと思いました。

海外から帰って来て僕は布団しか敷いてないような部屋にいたので自分の荷物を見る機会が無かったんですけど、たまたまロンドン時代の自分の生活だったり、好きなものを見る機会があって、それを見た時に間違いなくこれはwrittenafterwardsじゃないなと思ったんですよね。自分からずれてきているというのを感じてもう一回自分を取り戻さなきゃいけないと思ってもう一回一人でやろうと思って山縣との意見をのんで一人でやると決めましたね。

‐それを見て自分はwrittenafterwardsに合わせていたと感じたのですか

多分山縣もある程度合わせていたと思うんですよね。writtenafterwardsって山縣良和でも玉井健太郎でもないじゃないですか。だからある程度着ぐるみじゃないですけどwrittenafterwardsという中でお互い遠慮しあってものを作っていたんだと思います。

続く

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