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MASATO ASHIDA

蘆田 暢人

建築家
1975年 京都生まれ
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了
内藤廣建築設計事務所を経て独立

蘆田暢人建築設計事務所 代表
ENERGY MEET 共同主宰

e-mail: mstashd@gmail.com
twitter: @masatoashida

RE:音を纏う

もうだいぶ時間がたってしまいましたが、先日SHUN OKUBOさんの展示会で、”komm tanz mit mir”(”私と踊って”)というシリーズを拝見しました。
大久保さんもブログで触れてくださいましたが、これは音を纏うジュエリーだと感じました。

このシリーズは音をテーマにしたものでしたが、ジュエリーに差し挟まれた鈴はびっくりするぐらい美しい音色を奏でます。
特に大久保さんのブログにも写真がアップされているドーナツ型の鈴は、振り方や持ち方によって音色が変わり、カタチもとても魅力的で芸術作品のようなすばらしいものでした。
その鈴の音を聞いたときに、ふと現代生活の中では「音」というものが乏しくなっているような思いに駆られました。

ファッションにおいても、聴覚を楽しませることはあまりないのではないでしょうか。
視覚はいうなれず、たとえばオーガニックコットンのような心地よい素材は触覚を楽しませます。嗅覚には香水がある。

いうまでもなく身の回りに音は溢れています。自分が発する声も含め、様々な音の中でぼくたちは生活し、音楽というすばらしい文化もあります。
聴覚は、視覚と同様、五感の中でもっとも他人と共有しやすい感覚なので、音というものは必然的に共同性さらには社会性を帯びているのです。
儀式や祝祭などにおいて、古来から音というものは共同体が一つになるためのツールとして利用されてきました。

現代社会には、いい音と悪い音があります。車の排気音や電車の走行音は静寂な生活を阻害する悪い音、反対に音楽などはいい音でしょう。悪い音は得てして社会問題になり、否が応でも共有化されています。
しかし、いい音の方はというと、むしろ個人化に向かってきたような気がします。
今では、音楽はイヤホンで聴いたり、あるいは集団で時間を共有するコンサートなどにおいても、暗い空間でステージにだけ光の当たった状態でそこだけに意識を集中しながら音を楽しみます。
また、カフェなどで流れるBGMは、他人の会話が気にならないようにするために使われているのでしょう。
社会とまではいわなくとも、周囲の人と音を通じて関係をつくるということが少なくなっているような気がします。(カラオケは別かもしれませんね。笑)

近代は視覚にもっとも焦点が当てられ、特権化された時代でした。
写真や映像技術の発展が社会に浸透し、世の中には「イメージ」が溢れるようになります。音楽という芸術は、その中でも息絶えることなく脈々と引き継がれてきていますが、生活の中では音に気を払うことが失われていったように感じます。

服装の面からいうと、着物は衣ずりの音や裾が床をすって歩く音は、当時を生きる人の所作と結びつき、作法を通じて人間関係にまで影響を与えるものでした。音について気を払わざるを得ない文化がそこにはありました。

建築に目をやれば、昔の日本の建築は絶妙な音空間を作りだしていました。現代のような固い素材ではなく、木、それも杉や檜のような軟らかい木が使われていて、静かな心地よい音環境の中で風の音や鳥のさえずりなどの自然の音と一体化するような空間が生まれています。
今でも残る寺社仏閣に行った際に、そのような体験をみなさんも感じてらっしゃるのではないでしょうか。

音に気を払われていないことが多いという点では、現代の建築も同じです。目に見えるデザインだけ凝っていて、中に入るとひどい音の環境という建物は結構あります。仮に気を払っていても、壁や天井で吸音する程度。どちらかというと性能だけに目を向けていて、ネガティブに扱っている感じです。もっと複合的かつポジティブに、デザインとして音の環境をつくることが必要だと思います。

みんながそれぞれ自分の音を纏い、そのちょっとした仕草とともに奏でられる個性。人とのふれあいが少し豊かになる気がします。

大久保さんの今回の作品にその可能性を感じました。

音は踊りとも密接につながっています。長くなるので踊りについてはまたの機会に触れたいと思いますが、まさに大久保さんの今回の”komm tanz mit mir”というシリーズは、そこに触れた作品だと思います。

One Response to “RE:音を纏う”

  1. c より:

    大変興味深いです。
    個人的な話になりますが、これまでに無機質な音が飛び交う現代社会において(レンジ、改札機、エレベーターの音など)、「無音」という音もまた他者と共有できる有機的な音だと感じることがあります。なにかしらの人工的な音に埋もれている現代において、「無音」ほど人を不安させるものはありません。そんな空間におかれたとき、われわれは「無音」を土台として相手の息づかい、皮膚がこすれる微々たる音に神経を集中させるように思うのです。つまり、相手と共有できる「音」を生み出す「音」として「無音」があるということです。
    例えば、今回取り上げられている鈴は、身体性に基づく「音」であり、踊りの場においては、人と人がふれあう空間をつくりあげる媒体となります。このとき、「音」を「音」たらしめるのは、人工的な雑音のない「無音」ではないでしょうか。
    まとまりのない内容になってしまい申し訳在りませんが、大変興味深い内容でしたので一言そえました。
    次回も楽しみしています。