「ファッションと音楽」というテーマでしばらく書いていこうと思います。
『ヒップ アメリカにおけるかっこよさの系譜学』という本があります。アメリカ文化のなかで「ヒップ」(かっこいい)という概念がどのように生成されていったのかについて紐解いていった本です。詩人ウォルター・ホイップマンからザ・ストロークスまでこれでもかというくらい様々なヒップスターたちが登場します。
あまりのボリュームと情報量に圧倒され、読むのに気合が入りますが、読後感はたいへん満足します。
「かっこいい」とは何かについて、何となくわかったような気がします。
この何となくわかったという感覚が、実は重要な気がするのですが、というのは「かっこいい」というのはきわめて主観的な概念であると同時に、それでいて何となく共有される概念だからです。
ようするに、わかる人にはわかる。マニュアル化され過ぎたら意味がない。
著者ジョン・リーランドいわく、「ヒップスターのためのマニュアルはない」。
そしてこの「わかる人にはわかる」という感覚こそが90年代カルチャーにおいてとても重要だったのではないかと思うのです。
例えば、誰かのCDラックを見る。
そのなかに、オアシスの『Be Here Now』が1枚だけあったらあまりかっこよくない。ファーストとセカンドが揃っているときそれは意味を持ちます。
また、US盤とUK盤の2枚とも所有したい。というのは、ジャケットの一部が違うからです(左下の数字が、21or26)。
さらに、それはクリエイション・レコードのものでなければなりません。申し訳ないのですが、ソニーでもエピックでもダメなのです。
それから、オアシスの隣にはブラーではなくて、ハリケーン#1、ティーンエイジ・ファンクラブ、アドラブルなんかを置いておきたい。その流れで、ジーザス&メリーチェイン、ライド、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、スロウダイヴといったシューゲイザーものへと連ねていきたい。プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』や、オレンジ・ジュース解散後のエドウィン・コリンズのソロを数枚といったエレヴェイション・レコードものがあったらもう最高です。
以上、全くもって僕の個人的なこだわりでした。盤が違っていても音質にほぼ違いはありませんし(あるものはある)、50音順に並べればいいじゃんかとも思いますが、そこはこだわりです。モノの並べ方で何かが語れる気がしていたのです。
と、こんなふうに90年代は棚に並べてあるCDや本のタイトル、そしてその並べ方を見ればその人がどんな人なのか何となくわかりました。モノの所有、配列の仕方そのものが、重要なコミュニケーション・ツールとなっていたのだと思います。
この感覚はあらゆるカルチャーがデータベース化し、あるいはクラウド化されていくなかで次第に薄れていったのではないでしょうか。データベース化とはある種のマニュアル化だと僕は思います。そればかりになってしまうとあまり面白くない。
ちなみに僕のiTunes、目下のところオアシスの隣にはNujabesとOFWGKTAが並んでいます。
まあ、それはそれでいい気もしますが。
僕がファッションに夢中になったのは90年代後半からです。その90年代についてまずは書いていきたいと思います。
僕にとってファッションとは見た目以上に、その背景にある物語を楽しむものでした(素材や仕立てに惹かれるようになるのはもう少し後のことです)。
ナンバーナインのミルク&クッキーTシャツとかのモチーフものはもう最高でした。ただのTシャツを着ているのではなくて、アンディ・カウフマンの思想そのものを着ているような気がしていました。
原宿の街を歩いていて、おぉ、あの人デヴィッド・ボウイの73年UKツアー時のTシャツ着てるぞ!かっこいい!とか興奮したものです。
ファッションの背景を知ることが、もう楽しくて楽しくて仕方なかったんですね。
その頃はいつでもどこでも買えてしまうようなアイテムではダメだったのです。当時、ファストファッションが流行っていてもたぶん着なかったと思います。
多くの人には何の変哲のないものであっても、わかる人にわかれば良かったのです。
その感覚をもう一度語ってみようと思いました。
「D’you Know What I Mean?」はオアシスが1996年に歌った曲です。
この言葉は、当時のオアシスというバンドのかっこよさの全てを語っています。
「なぁ、わかるだろう?」
Oasis: D’you Know What I Mean?
補足。
「かっこいい」と同様な概念として、日本には「かわいい」というものがあります。
こうした感覚的な概念を紐解いていくことは、とても大切なことだと思うのです。