多数決主義と民主主義は違うんじゃないかなと感覚的にはっと思ったので今ちょっと書いてみてます。
気になったので転載させてもらいます。
以下。
一見すると、多数決の原理と、個人および少数派の権利の擁護とは、矛盾するように思えるかもしれない。しかし実際には、この二つの原則は、われわれの言う民主主義政府の基盤そのものを支える一対の柱なのである。
★多数決の原理は、政府を組織し、公共の課題に関する決断を下すための手段であり、抑圧への道ではない。ひとりよがりで作った集団が他を抑圧する権利がないのと同様に、民主主義国においてさえも、多数派が、少数派や個人の基本的な権利と自由を取り上げることがあってはならない。
★民族的背景、宗教上の信念、地理的要因、所得水準といった要因で少数派である人でも、単に選挙や政治論争に敗れて少数派である人でも、基本的人権は保障され享受できる。いかなる政府も、また公選・非公選を問わずいかなる多数派も、それを取り上げてはならない。
★少数派は、政府が自分たちの権利と独自性を擁護してくれることを確信する必要がある。それが達成された時、その少数派集団は、自国の民主主義制度に参加し、貢献することができる。
★民主主義政府が必ず保護しなければならない基本的人権には、言論と表現の自由、宗教と信仰の自由、法の下での正当な手続きと平等な保護、そして組織を結成し、発言し、異議を唱え、社会の公共生活に全面的に参加する自由などがある。
★民主主義国は、少数派には文化的独自性、社会的慣習、個人の良心、および宗教活動を維持する権利があり、それを保護することが、国の主要な責務のひとつであることを理解している。
★多数派の目に異様とはまでは映らなくても、奇妙に見える民族や文化集団を受容することは、どんな民主主義政府も直面しうる難しい課題のひとつである。しかし、民主主義国は、多様性が極めて大きな資産となり得ることを認識している。民主主義国は、こうした独自性や文化、価値観の違いを脅威と見なすのではなく、国を強くし豊かにするための試練と見なしている。
★少数派集団の意見や価値観の相違をどのように解決するかという課題に、ひとつの決まった答などあり得ない。自由な社会は、寛容、討論、譲歩という民主的過程を通じてのみ、多数決の原理と少数派の権利という一対の柱に基づく合意に達することができる。そういう確信があるのみである。
- Bureau of International Information Programs “Principles of Democracy” -
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-principles2.html
色々とあるとは思いますが、そう、色々あるからこそ、それこそがそれぞれの立場の多様性。
10人いれば10通り。
ちょっとしたことで「不謹慎」とか「自粛」とかって相手に強要もしくは暗黙の空気みたいになるのは少し違うのではないのかなと…。
それぞれの現実や立場や想いがある上で認め合った上で歩み寄りの中で話を築き上げていくことが大切だと思います。
こんなぼくの生半可な言葉も、生半可だからこそこんな言葉を言うしかないのかもしれないです。
服飾のみに限らず、な話ですが
フランスは”フランス革命”という民衆による革命が18世紀後半にあり、その上に成り立っている国だそうです。
そんな国で、たとえば服飾文化が国の大きな存在として認知されていたりするのも面白い話だなと思ったりします。
それもそれで保守と寛容のせめぎ合いも複雑でしょうか。
ぼくは小学生の頃、友達と放課後に学校の校庭などで走り回ったり遊んだりしているときも
「早く家に帰ってゲームの続きやりたいよ」
とその一心のみ、非友達想いな子供でした。
何はともあれ「一元的な価値観のみ」では、本質に迫れないのでは?
駄文失礼しました。
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