今日はファッションの批評について。
大きなことを言うようですが、ここ最近、どうにかして日本でファッション批評を成立させたいと思っています。
作り手からすると、批評という行為/制度には関心のない人も多いかと思います。ですが、ファッション・デザイナーが長期間生き残るためには、批評という行為/制度も必ず有益なものになるはずです。たとえば、1990年代に活躍していたファッション・デザイナーの多くがブランドをやめたり、その規模を縮小したりしていることの要因は批評の不在にもあるのではないかと個人的には思います(もちろん、それ以外の要因もありますが)。
しかし、そもそもファッションの批評が可能なのかどうか、僕自身にもまだわかりません。恐らく試行錯誤の繰り返しになるとも思います。それでも、この問題を少しでも共有してくれる人が出てくれることを願いつつ、このブログで少しずつファッション批評の可能性について考えていきたいと思います。
今日はまず、ファッション批評を行う際の問題点について。最も大きな問題は、ファッションの場合、批評の対象が不明瞭なことだと思っています。
たとえば。
美術批評であれば、批評の対象は通常、ひとつの作品、あるいはひとつの展覧会です。
音楽批評ならひとつの楽曲、CD、あるいはライブ。
演劇批評ならひとつの公演。
映画批評ならひとつの映画作品。
こうして比較してみると、まずファッション批評の対象として考えられるのはひとつの作品、つまり一着の衣服です。しかしながら、他分野の作品と比べると──とりわけ1本の映画と比べれば一目瞭然ですが──、一着の衣服が持つ「情報量」が圧倒的に少ないのです。この情報量の少なさゆえに、1着の衣服の批評はほとんど不可能だと思います。もちろん、服飾史を振り返ってみれば、エポックメイキングな1着もないわけではありませんが、そういった作品はごく稀です。
そうすると、次に考えられる可能性は1シーズンのコレクションをひとつの単位として見ることで、これは美術の展覧会をひとつの単位として批評することに似ているといえるでしょう。しかしながら、ここで制度的な問題が生じます。それは、コレクションをまとまって見る機会の少なさです。展覧会であれば、会期が数週間、あるいは数ヶ月あることも珍しくない上に、誰でも見に行くことができますが、ファッションの場合はそうもいきません。ショーは1回しか行われない上に、誰でも見に行けるわけではないからです。展示会も数日の期間があるとはいえ、ほぼ同様です。
さらには、ファッションのアーカイブ制度の不在も大きいように思われます。美術作品であれば、美術館が買い取って所蔵するという制度が成立しています。そのため、数年前、数十年前の作品であっても改めて展示される機会があるのですが、ファッションの場合、それを行う機関が日本にはほとんどありません。そうなると、過去の作品をさかのぼって批評することが不可能になってしまうのです。
現在のファッションを今でも収集している機関は京都服飾文化研究財団くらいでしょうか。神戸のファッション美術館は、そのコレクションはすばらしいものの、既に収集を行っていないと思います。数年前にオープンした島根の石見美術館もファッションの収集を行っているのですが、現代のものはあまりないように思われます。
ヨーロッパでは「美術館」がファッション・デザイナーの作品を所蔵することが珍しくありません。オランダのようなファッションが盛んでない国でも、フローニンゲン、ユトレヒト、デン・ハーグなど地方の美術館があたりまえのように衣服を収集の対象としていますし、ファッションの展覧会が至るところで行われています。
日本の美術館がファッションに目を向けるようになるためにも、批評は必要です。こう考えると、批評が先か、アーカイブや展示の機会を増やすのが先か、と卵が先かニワトリが先かみたいな話にもなってしまいそうですが、僕個人としては、まず批評を成立させ、どの作品が良いのか、それが何故よいのか、と語る言語を作るのが先だと思っています。ただ単に「日本の美術館は衣服を買ってくれない」と嘆いているだけでは不毛だからです。
今日書いていること、あるいは今後ファッション批評について書くことは、あくまで現在進行形の考えです。ですので、後々「やっぱりあれは間違いでした!」と言うことになるかもしれません。ひとりで考えられることには限界もありますし、現場からほど遠いところにいる人間の意見ですので、見当外れなこともあるでしょうし、十分練られていない僕の意見に対する批判もあるでしょう。それでもやはり、一歩ずつでも進めるように、少しずつこの場で考えを表明していきたいと思います。
言葉の響きですが、どうも批評というとネガティブがイメージがつきまといますが、踏み出したら、何らかの形に残せるように、頑張ってみて下さい。応援します。
僕も毎回興味深く読んでいますよ。蘆田さんの記事を読んで考える部分もあります。蘆田さんと俊君は勿論繋げる役割をさせてもらいますがその他にも色々繋げる手助けが出来たらと思っています。僕はやっぱり作り手さんのことも知ってもらいたいと思いますし。
KeNさま
仰るとおり、批評という言葉に悪いニュアンスを見ている人もいると思います。ですが、批評とは概ね「ある基準に従って、ある作品の良さを論理的に説明する」ものだと僕は思っています。これからもファッション批評に関して少しずつ書いていくつもりですので、何かご意見がございましたら、お聞かせいただければ嬉しいです。
Takidaさま
ありがとうございます。作り手のことを知りたいという気持ちはもちろん僕も持っていますし、可能であればいろんなデザイナーさんの言葉を聞いていきたいと思います。今後色々とお世話になると思いますが、よろしくお願いいたします。
興味深くブログを読ませていただきました。
個人的に一般の人向けにファッション教育の勉強会を企画したりしています。
いくつか質問をしたいのですが、
日本でファッション批評を設立させたいとありましたが、日本ではないのですか?他の国では設立していたりしているのですか?
デザインの批評というは国内外であるのですか。あるとしたら参考の本とか教えていただきたいです。
実際に、蘆田さんがファッション批評された文章があれば教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
未来派の論文読ませていただきました。とても勉強になりました。バウハウスとのモードの関係も知りたくなりました。こちらも言及してあるものがありましたらお教え願いたいです。
篠崎さま
コメントありがとうございます。
日本でもたとえば平川武治さんのように、評価の基準を提示しながら批評をされている方もいらっしゃいます。ですが、批評は行為であると同時に制度でもあると思います。だとすれば、批評という行為にとって、基盤となる理論も、批評の場も(もっと言えば批評を受け入れる土壌も)必要です。
またブログでも書きますが、既存のファッション/衣服に関する理論は十全だとは言えませんし、批評がなされる場もあまりないように思います。一気にすべてを行うことは不可能ですので、まずは日本で(つまり日本語で)考えていこうと思っています。
また、ブログとはいえ公の場なので不用意なことは言えませんが、個人的には、他の国でも恐らくファッション批評は成立していないと思っています(断言はできませんが)。
デザイン批評ですが(プロダクトデザインのことでよろしいのでしょうか?)、ファッション批評よりはあると思っています。それはデザインの理論や歴史がファッションのそれよりも明確で、共通認識が得られていることも一因だと思います。参考になる本は僕も探しているのですが、なかなかこれといったものが見つかりません。もし何か見つかりましたら、またここで紹介したいと思います。
僕自身が批評した文章は今はお見せできるものがありませんが、これからここで試みていくつもりです。
「バウハウスとモード」という問題系で語られたものは今のところ目にしたことがありません。おそらくはオスカー・シュレンマーの「トリアディッシュ・バレエ」の衣装のことを念頭に置いていらっしゃるのだと思いますが、舞台衣装とモード、あるいは日常の衣服というのは少し異なる問題系にあると思います。
シュレンマーの衣装に関してであればこれが参考になるかもしれません。
http://tinyurl.com/2bd3pao
あとは、こちらにもいくつかpdfでダウンロードできるものがあるようです。
http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC&range=0&count=200&sortorder=1&type=0
私にもわかるような形でファッションのことを考える場が育って欲しいと思っていまして、なので、ファッション批評が育って欲しいと思っています。応援しています。わかりやすい文章で書いていただけるとさらにうれしいです。
近年、日本でも美術館でファッションを取り上げる増えてきたように思います。長谷川さんの企画する展覧会にはファッションが入ってきていますね。(建築の方がより多いですが)ファッションを取り上げるキュレーターが増えて欲しいですね。ファッションが着るだけの視点から、考える視点へ視座が広がってきているのではとも思います。その点はどう考えますか?その傾向を反映したファッションデザイナーがいれば教えていただきたいです。
デザイン批評は、プロダクトやファッションを含めたデザイン全てのことを話したつもりでした。言葉足らず申し訳ありませんでした。ファッションの批評が他国でも成立していないのであれば、やはり、参考になる本は無いのですよね?
デザインの分野によって批評制度が成立してある分野があるのですよね。そう思うと「批評という制度が可能な分野はなぜ可能か?」という疑問がわいてきます。なぜなのでしょうか?
バウハウスの情報ありがとうございました。オスカー・シュレンマーの衣装を念頭においたわけではなく、単純に未来派にはモードのことがあったので、バウハウスにはないのかと思ったので聞いてみました。
たしかに長谷川さんはよくファッションを展覧会に組み込んでいますね。ただ、欲を言えばもう少し取り上げるデザイナーの幅を広げてくれるとよいのですが。「ファッションが着るだけの視点から、考える視点へ視座が広がってきている」というのは事実だと思います。ガールズコレクションでもユニクロでも考える対象にはなり得ますが、服を通して考えさせるデザイナーという意味では、今ならやはりwrittenafterwardsではないでしょうか。
デザインと一口に言っても、グラフィック・デザイン、インテリア・デザイン、ファッション・デザイン、プロダクト・デザインなど様々なデザインがあり、それぞれ異なる理論と歴史を必要とするので、すべてをまとめて扱うことは不可能だと思います。
批評が可能な分野に関してですが、それは歴史や理論の研究が十分になされているかどうかがかなり重要な問題です。美術批評が成立しているのはその基盤がしっかりしているからだと言えると思います。
ファッション批評の参考になる「1冊の本」はなかなかないと思います。もちろん、僕が知らない本は数多くあるので(というか、知っている本の方が少ないですが)、断言はできませんが。まとまった本ではないですが、平川武治さんのこれまでの批評は参考になるのではないでしょうか。
いろいろとご質問に答えていただいてありがとうございます。
平川さんの批評を読んでみます。
writtenafterwardsをどう見ているのか是非語っていただきたく思います。
「ファッションを考える」(仮)というシンポジウムかトークを行いたいと思っていまして、是非、蘆田さんに出て頂きたくなりました。ご検討お願いします。
篠崎さま
まだ十分に練られたものではないのですが、ファッションの批評をする上で「いかに物語を作り出しているか」というのが軸のひとつになり得るのではないかと考えています。writtenafterwardsが面白いのもそうした観点からなのですが、もう少し考えてから書こうと思います。
まだまだ知識も経験も十分ではありませんが、もし僕でお役に立てることがございましたら、いつでもご連絡ください。
連絡先は
ashidahiroshi アットマーク gmail.comです。
遅くなりましたが、メールで言おうとしていたことを書きます。
ファッションにおいて「批評の対象が不明瞭」ということ。実際に衣服を収集し展示する立場でそれに通じる実感を持つことがあります。美術の批評や解説では作品名を二重山括弧「《》」で括ります。例えば、
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 《ひまわり》 1888年
のように。
ファッションの展示では、その括弧をどこにあてはめるべきか悩みます。理由の一つは、当たり前のことですが、個々の衣服に固有の名前が付くことがあまりないからです。次の括りで考えるのは春夏、秋冬の年2回開催するコレクションのタイトルやテーマです。例としては、通称「こぶドレス」を発表したコム・デ・ギャルソンの「ボディ・ミーツ・ドレス・ドレス・ミーツ・ボディ」。しかし、三宅一生の「A-POC」シリーズは、1998年の発表以降、「ISSEY MIYAKE」ブランドの基本コンセプトとなっていて、一つのコレクションのみで語ることは不可能です。
しかも、ファッション史においてはエポック・メイキングな服が固有名詞を持つことがあります。クリスチャン・ディオールが1947年に発表し、のちに「ニュールック」と呼ばれるドレスは、「Bar(バール)」という固有名詞が付いており、それ以外の同じシーズンのドレスはほとんど話に上りません。それより以前のデザイナーすらわからない服にはそもそも名前がつけられません。
名前を付けることは何らかのカテゴライズをすることですが、そのカテゴライズの仕方がファッションという分野における慣習に依存するのではなく、デザイナーの裁量に負う部分が多い。その自由さが批評をする際の対象化を難しくしているのかもしれません。批評が曲がりなりにも成立している美術、音楽、映画などの分野は、個々の作品に対して名称を付けるのが慣習化しています。
Makoto Ishizekiさま
ファッションにおける、「作品の単位」と「固有名/名付け」の問題は本当にやっかいですよね。
最近、京都国立近代美術館で「マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から」という展覧会がやってましたが、あれもカテゴライズの問題を取り上げたものでしたね。ファッションにおいてもそうした問題を表面化させていこうと思うと、やはりアーカイヴの問題と切り離すことができないと思います。
そういった意味でも、KCI(京都服飾文化研究財団)の役割は重要だと思います。KCIが行うことが規範となる可能性がとても高いので。
「Future Beauty: 30 years of Japanese Fashion」展にも期待しています。
KCIはモノ(=収蔵品)と発信力という大きなアドバンテージを持っている以上、規範を作っていくという責任にも常に配慮しなければならないと思います。
アーカイビングに関してはファッション研究先進国の欧米ではかなり整備が進んでいます。記録項目の定義とそれぞれの範囲を明確にした上で共有できるようにすることが時間はかかるものの、ひとつの課題です。蘆田さんにもお手伝いしてもらいたいです。
「Future Beauty」展の忌憚ない批評もよろしく。
「作品の単位」という問題に戻ると、コレクションがひとつのまとまりとして意識されるようになったのは70年代あたり、つまり、プレタポルテ(いわゆる既製服)が将来的な市場として認知されて、それまでのオートクチュール(高級仕立服)がやっていた定期的な顧客へのプレゼンテーションの形式を借りてスペクタクル性を強調したショーを行うようになってからですよね。
それ以前のオートクチュールのショーは慣習的に昼間の装いから始まり、カクテル、イブニングなどの夜の服を経てフィナーレでウエディングを出すという流れに沿って発表されていたからなかなか統一的なテーマを見せることができなかったように感じます。それに、ショーを見せる対象が服を買う顧客そのものということもあって、個々の服に名前を付けたりしてしっかりと印象付けようという思惑もあったかもしれませんね。
そう考えると、ファッションの批評を展開する上で、その対象がファッション界のどういった枠組(たとえばプレタポルテかオートクチュールか)に入るのかを考えることもかなり重要になってくるのではないでしょうか。
P.S. 最近はコレクション発表をしないデザイナーもいますよね?(あまり詳しくないですが……)1回にまとまった作品を発表しないデザイナーがいたとしたら、コレクションを単位にはしにくいですね。
「記録項目の定義とそれぞれの範囲を明確にした上で共有できるようにすること」って地道で大変な作業ですが、本当に重要ですよね。あまりモノに触れる機会のない僕にお手伝いできることなどあまりないとは思いますが、できることがあれば何でもご協力します。
「Future Beauty」展、そもそも見に行けるかどうか・・・
日本でも開催されることを期待します。
「単位としてのコレクション」に関するご指摘、まさにその通りだと思います。こうしたことも、歴史の認識などにも関わる重要な問題ですよね。しかも、ファッション固有の問題なので、美術やデザインからの借り物の理論は適用できませんし。
今のところ、「作品の単位」については複数の基準を設けるしかないと僕は考えています。たとえばwrittenafterwardsに関して言えば、ひとつのコレクションを通じて物語を作り上げていくことがひとつのポイントだと思っていますし、(デザイナーと呼んでいいのかどうかわかりませんが)アネッテ・メイヤーなどの場合には1着の衣服を論じることもできますでしょうし。このあたりはファッションの定義にも関わる問題なので、難しいですが。。。