Interview

CREATIVE DIRECTOR Etsuko Yoneyama 1/5

セレクトショップ「Lamp harajuku」や「usagi pour toi」をはじめ、H.P.FRANCE主催の合同展示会”rooms”では特設ブース「扉のむこう側」をディレクションするなど幅広く活動を行う、H.P.FRANCE企画室クリエイティブディレクターの米山えつ子氏。

ショップ内のギャラリー運営やイベント企画など、アートと密接した関係を持ち多くのクリエイターとコミュニケーションを図る。「扉のむこう側」など各イベントでのディスプレイデザインは、ショップやアーティストの世界観を適確に捉え前面に打ち出す。

「Lamp harajuku」のコンセプトに『女の子の二面性』とあるように、彼女自身が1人の女性として内在する個性と探求心を操っているかのようだ。ファッション、アート、ミュージックと、あらゆるカルチャーが横行する空間を作り出す上で生かされる独自のセンスはどのような道のりを歩んできたのか、そして今後どのように開拓されるのか。Lamp harajukuの話を中心に展開していく。

―米山さんの出身は東京ですか?いつからファッションに興味を持っていたんですか?

出身は神奈川です。
ファッションには小さい頃から興味がありました。小学生の高学年になる頃にはランドセルを背負いたくないということで斜めがけのバッグが可愛いと思いスヌーピーの斜めがけのバッグを使っていました。服装は個性的ではありませんが気にはしていました。多分テレビの影響だと思うのですが他の子より少しませていたと思います。

―雑誌はどんなものを読んでいたのですか?やはりオリーブ少女だったのですか?

そう見られるかもしれませんが私実はオリーブ少女ではありません。オリーブはほとんど読んだことがないんです。小中学生の時はmc Sisterを読んでいました。ファッションにも勿論興味がありましたがどちらかと言えば音楽の方により興味を持っていました。

高校生の頃にはパンクバンドもやっていました。ブルーハーツから始まりピーズとかをよく聞いていて。洋楽を聞き出したのは高2でバンドをやりだしてからです。セックスピストルズのコピーもしましたがプリンセスプリンセスのコピーもやりました。
その頃は服装もパンクでした。高校は制服だったんですけど割と自由な学校で夏場はスカートとシャツを着れば良くて靴はラバーソールにリュックを背負っていました。髪型はその当時から変わらないんですけど色は赤でした。私服は黒のライダースに白のレースのスカートや黒のレースのスカートを合わせたりしていました。

高校を卒業してからはラフォーレ原宿で働きたい店があったのでそこで働きながら、インディーズバンドのマネージメント、ブッキングをしたり、ミニコミも作ったりしていました。

―そのお店ってどんなお店だったんですか?

地下一階にあったのですがロンドンのインディーズブランドを扱っているようなお店でした。音楽が好きだったのでそういうものに憧れがあったんです。
昔からメジャーなブランドに興味がなかったので皆が知らないようなブランドを着たり持ったりしていました。バンドもメジャーどころも聞いたりもしますがマイナーなところ、みんながあまり良いと言ってないような人を良いって言いたいようなひねくれた人でした。

そのお店をやめた後はバンドのマネージメントがメインになり2年間くらい専業でやっていてバンドの仕事で全国ツアーにいったりもしました。
赤髪おかっぱだったんですけど高円寺の夜のお店で働いたりもしていました。そこのお店は緑髪の人だったり、ピアスだらけの人だったりと色んな人がいて面白いお店でした。
その後アルバイトで20歳位の頃に入ったのがラフォーレ原宿にあったここの会社の(フランス人のドミニクロンドがバイヤーを務める)ドミニクロンドというお店だったんです。当時は今はルームスのプロデューサーである佐藤美加さんが店長を務めていました。

―その頃の米山さんの服装はどんなだったんですか?

真っ黒だったんですけどパンクがアングラな方にいっていました。全身真っ黒で部屋も真っ黒、カーテンも家具も、爪も全て黒。
夜の仕事をしながら昼はマネージメント。その時代は昼間は外に出てないから黒が気にならないんです。
この会社で働き始めてからだんだん黒の部分がなくなり更生されていったんです(笑)。

でも中身はいい加減で、ラフォーレの横の銀行の場所でお休みの日に勝手にフリマをやったりして警察に注意されたこともあります。しかもドミニクロンドのお客様に服をそこで売ったりもして。勿論会社にも凄く怒られましたね。

―H.P.FRANCEの社員になったのはいつですか?

93年です。その間にお店を辞めた期間もあります。アルバイトで入って辞めてまた入って。
きっと最初の頃はまだ本気で仕事する気になれなかったんだと思います。22歳で今の会社に入っているのですがそれ以前は私の中で学生生活の延長のような気分で働いていたのだと思います。バンドの仲間との交流も楽しかったし、就職できちんと働くとなるとそういうことも出来なくなる。踏ん切りがつかなくて一度辞めたんです。

でも「自分がやりたいことってなんだろう」ってその一年くらい前から考え始めていました。音楽の仕事にいくか、服飾を仕事にするか。それで音楽は趣味にして服にしようと思って腹をくくったんです。
それまでは頻繁に遅刻もしていましたし、ちょっと具合が悪かったら休んだり、ろくに仕事もしなかったのですが腹をくくって就職してからはそういうことはだんだんなくなっていきました。
今は真面目にやっています。

―会社に入ってからは何か目標はあったんですか?

会社に入ってすぐ店長がやりたいとおもっていました。単に人に指示されるのが嫌で早く上にあがりたいっていう不純な動機です。それにドミニクロンドさんのバイイングが徹底していましたのでそれに憧れてバイイングにも興味を持ちました。
ドミニクロンドで働いてから2年後くらいに渋谷パルコに東京のデザイナーさんを集めた「h」というお店を新しく作るということでバイヤーをやりたいと言ってやらせてもらえました。

―そんなに若くしてバイヤーをやらせてもらえるんですね。

その頃は社員も少なかったですし、自己主張が激しかったというのもあったと思います。
バイイングといっても最初はディレクションは上司がしていてブランドも決められていてその中でバイイングをするという仕事でした。
その2年後くらいに「h」の主力ブランドであったgommeが直営店を出すということで新しいブランドを探さなければいけないということで自分で探して新しいブランドを入れ始めたんです。
まだブランドをはじめたばかりのmina perhonenやchausserも入れたりして。その辺りから店舗のディレクションにも関わり始めました。それが今のランプの原型になっています。そこを3年やって今の場所に移りLamp harajukuとしてスタートしました。

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