Interview

ANREALAGEの”LOW”と”A NEW HOPE”を業界関係者はどう捉えたか

2011年4月16日ANREALAGE 2011-12 A/W Collection がラフォーレミュージアム六本木で開催された。

3月11日に発生した東日本大震災によりショーの発表延期、中止を余儀なくされたブランドが相次ぐ中、ファッションの未来を信じる人々の新たな希望になればと願いを込め、その活動を「A NEW HOPE」と掲げいち早くランウェイショーを行うことを発表したmintdesignsとANREALAGE。
今シーズンのテーマは「LOW」(低解像度)”形”に着目したコレクション。2次元の解像度というものを3次元の中で解像度を上げたり下げたりすることによって形を変えている。Lowというテーマを設けハイテク技術を用いることによりLowなものを表現した。

昨シーズン数年振りに行ったランウェイショーが業界内外で高い評価を集め一躍東京コレクションの寵児となったANREALAGE。彼らの提案した最新コレクション”LOW”に業界内の人間はどんな評価を下したのだろうか。

1度目となる今回はデザイン研究者の水野氏、京都服飾文化研究財団アシスタント・キュレーターの蘆田氏、ショー中止が相次ぐ中自身もランウェイショーを行ったCHRISTIAN DADAの森川氏、そして表紙にANREALAGEを起用した最新号が話題となった学生によるフリーマガジンADDの小田氏の4人に話を聞いた。

→ANREALAGE 2011-12 A/W Collection
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アンリアレイジのショーは、非常に高い期待と共に拝見しました。

といいますのも、震災の影響によって元来のスケジュールが延期された結果としての『A NEW HOPE』という大きなテーマを構えたこと、そして『LOW』というキーワードが事前に提示されていたため、どのように震災後の『希望』(仮にそれがスター・ウォーズエピソードⅣのサブタイトルでも)と関係してくるのか、そして、これまで身体と空間と衣服との関係性を問いかけてきたアンリアレイジの活動にどのような影響を及ぼしたのか、といった点に興味をもっていたからです。

見終わった直後の感想としては、最後に出てきたショーピースとしての2体の物理的完成度がちょっと低く、たるみやしわがうきでているのがもったいなかったなあ、とか、ピクセル化の表現の部分はだれが切ったり貼ったりしたんだろう、すごい手仕事の密度なのかなあ、とか思っていました。でも、そんなことは一番大切なことではありません。

衣服の解像度を下げることによっても衣服は衣服であり続けるとした時、どのように今回のコレクションは既存の記号性を的確に援用しえたのか、という点を直後から考えていました。テキスタイルの表現にフォーカスがあたっていましたが、「ワンピースのかたち」「ロングコートのかたち」「ブルゾンのかたち」などの「ふつうのかたち」の集合体以上の何かを追求することも可能だったのではないか?
と思いました。

つまり、これまでのアンリアレイジの活動において今回のショーはどのような意味を持ち得たのか?
そして、それがどのように今日の社会状況との関係性を示唆するのか?

衣服の形は有限的に身体によってその実用性や機能性、物的特性に限界がある一方、実に様々な「美しい在り方」を規定しようとする試みが歴史的にあります。
しかし、時代によって変化するその在り方は、記号学的解釈のみでは衣服は十全に理解しえない、というか無理である、と多くの研究者が唱えてきました。しかし、「歴史化」され、使い回されることによりますますその強度を神話化するかのような記号が存在しています。そして、これらの要素はデザイナーが作り出した物語やメッセージを安定して伝えるための一つの手段として、極めて恣意的に援用されているように思います。1850年代のスカートの「かたち」や1920年代のドレスの「かたち」などの「アーキタイプ」=祖型をあたかもデータベース的に利用、消費することがファッションの創造性なのか?
という問いにぶつかるのです。

「かたちはかたちであることをやめない」のは、見る側と作る側の共犯関係の上に成立します。であるなら、より安定した「かたち」を探し、使って、見つめ直すことができたらどうなるだろうか?

常に更新され続ける「かたち」自体を問い直すために解像度を下げるという考えをより先鋭化するにあたり、もしかしたら歴史の中で扱われてきた様々なアーキタイプを捉え直すことが重要だったのではないかと思いました。

「ステレオタイパルなかたち」、今、日本でよくみる「ふつうのかたち」を問い直すことだけでなく
「アーキタイパルなかたち」、服が服として認識されるに至る発端としての「祖型」を問い直すこと

そんなことをかんがえました。

カッコイイとか実用性があるとかは当たり前の上で
挑発してくるアンリアレイジの活動に、今後も注視していきたいと思っています。

水野大二郎/デザイン研究者

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アンリアレイジのショーは生で見るのが今回が初めてで
結論から言うと、「気持ちのいいショー」でした。

ピアノの生音に乗せたアンリアレイジらしい作品の数々は見ててとても心地のいいもので、
震災により沈んでいた気持ちが明るく前向きになれた人はあの中にたくさんいたと思います。

また、第一印象では、率直にbeauty:beastを思い出しました。
DC世代を中学の頃とはいえリアルに通ってきた人間なので。
特にbeautyのデジタルシリーズは当時とても高く、
姉と一緒にお小遣いやアルバイト代を合わせて買っていたという思い出も手伝って。

しかしショーが進んで行く中で、レーザー縫製を使ったディテールなど生産技術は
尊敬するクオリティで見入る物があり、上記のものとは全く別の物と感じたのですが
今の東京ブランドはDC世代のコレクションに近いアプローチが多く見られると
思っていた先入観もどこかあったのかもしれません。

個人的に少し残念だったのは、
最後の2体が全体的なバランスの中ではどこか違和感がありました。
その違和感が伝えたい事かもしれないし、もちろん伝えたい事あってのことだとは思いますが
「LOW」というテーマに基づいていたとはいえ、
造形とコンセプチュアル寄りであるブランド上の無理矢理感というか。

あとは、いつものアンリアレイジのレベルからすると
「気持ちのいい」から逸脱せず、それ以下でもそれ以上でもなかったのかな?という気もしました。

それほど素晴らしいデザイナーという事の証拠だと思いますが。

色々書かせて頂きましたが
纏めると、僕個人では冒頭に書いた通り
気持ちが明るくなれるような良いファッションショーだったと思います。

それとこの感想を書いていく中で、同業のデザイナーの僕が人のブランドに対して
こういう事を書くのが正しい?のかも不明になる感覚に陥りました。
ジャーナリストやそれを生業としてる人はいいのかもしれませんが。

ファッションショーという1個の長いストーリーディレクションの中で、
育ってきた環境も違い、さらに趣味もテイストも違う同業の僕が、
いくら客観的に見ようが「考え方・見せ方」が全て共感出来るなんてあり得ないのですから。

ZOO MORIKAWA / CHRISTIAN DADA

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今シーズンのANREALAGEのテーマは「LOW」。インヴィテーションのグラフィックで容易にネタが想像されてしまっていた今回は、先シーズンほどの期待感を持つことがなかった(インヴィテーションから内容が推測されるのは悪いことではないが、前回の宙吊り感が素晴らしすぎた)。そして、ショーが始まってみると、予想通りの低解像度で描かれたグラフィックと8bit音楽。
グラフィックに関して言えば、beauty:beastのデジタル迷彩からどれだけの進歩があっただろうか。確かに新しいテクノロジーを使っている点では差異もあるだろう。
とはいえ、森永の強みであるコンセプトの具現化、そして立体造形の巧みさという点においては更新があったとは思えない。
もし、苦手な(と思われる)平面の表現にあえて挑戦したのであれば、その心意気も買いたいが、ショーの最後に登場したお世辞にも質が高いとは言えない造形物を見ると、そうとも思えなかった。ひとつ補足をしておくと、最後のピースは当初の予定では解像度が高くなって行く様子を表そうとしていたらしく、それが間に合っていればまた評価も変わったであろうが、やはり発表されたもので評価をせざるを得ない。
もうひとつ気になったのは、プレゼンテーションの形式である。これまで森永は見せる作品によってインスタレーションとショーを使い分けてきた。前回はショーに内包された時間性を有効に用い、「ビフォア/アフター」を継時的に見せるという意味で、ショーでなくてはならなかった。だが、今回のショーは本当にショーである必然性があったのだろうか。むしろインスタレーションの方が効果的に見せられたのではなかっただろうか。
さまざまな点において、今までのアンリアレイジの良さが消えてしまっており、中途半端な感が否めないコレクションだった。
蛇足ながら誤解のないように言っておくと、このように書いたからといって、森永邦彦というデザイナーを評価しないということでは全くない。むしろ逆で、森永は今の日本の若手デザイナーの中でもっとも才能豊かなデザイナーの一人だと個人的には思っている。彼のさらなる成長を期待しているからこそのコメントとして読んでいただきたい。

蘆田 裕史 / 京都服飾文化研究財団アシスタント・キュレーター

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現代を生きる若者の視点から反論を恐れず意見させて頂こうと思う。

まず、今回もいいか悪いかは別にして「ANRELAGEらしい」コレクションだった。

今まで数シーズン「洋服、服であるという日常性」を持ちながらも、「服、洋服」の定義や概念から疑問をもち、方法論から新しさを探求するというのが僕はANREALAGEらしさと捉えていた。

そして、そのブランドとしての「日常性と斬新性-着る服としても、見る服としても楽しい-」を両立するバランス感覚は素晴らしいと感じている。

今回も「既存のものの見方を変える事で新しさを感じる」そんな方法論の下、「定番の柄や形」の解像度を下げるという手法で、「新しい柄や形」を作り出し、新しい価値を提案してくれた。そして今までの造形的切り口から転換し、柄や形という新たなフィールドに挑戦したともいえるだろう。

さらに今の状況の中から考察して行きたい。

今現在、ハイファッション(オートクチュールやプレタポルテ)はその存在意義を問われている。ファストファッションがここ日本でも隅々まで浸透し、いまや低価格で表面上の豊かさは簡単に手に入る。近年の経済的閉塞感が横行する一方で、一種の反抗として「消費の快楽」を享受しているのかもしれない。

ここで、わざわざ何倍もの高いお金を払って、ハイファッションを享受する必要はあるのだろうか?もちろん多くの人にとってその必要はないと言えるのかもしれない。。。

ではなぜ今までハイファッションが存在して来たのか?
そんな単純な疑問がここで生まれる。

それはファッション、洋服とは「単なる消費物」では無く、「文化であり、アートである」という側面を有していたからだ。

文化で言えば、近年映画等で有名かもしれないがシャネルが「女性のコルセットからの解放」をファッションで表現し、女性の社会的な抑圧からの解放を示したように。

アートで言えば、マルタン•マルジェラの本能に訴えかける美しいクリエーションであったように。

その文脈において近年は、この上記の点が軽んじられて来たように思う。

確かに、この歴史に甘え、進化をやめてしまい、新しさを創出する事を諦めてしまったのかと感じることも時にあるが。

つまり、なんだか最近世間は売る事にばっかり興味があって、ファッションとはなんなのかとか、面白さとかを本気で開拓する気なのかなと思ったりする。

ファッションはある種の「物作り」であり、そこでは常に進化する事が他のもと同様に求められると思っている。

つまり、「文化としての社会的意義」「アートとしての美しさ」を理解出来る人が、認める人がいるか否かに、関わらずコレを捨ててしまったらもはや「無機質な単なる消費物」に成り下がる。

そして常に進化する事をやめてしまったものも同様に。

今一度、ANREALAGEを見てみると賛否両論あるであろうが、新しい価値を創出し、ハイファッションの魅力を提案しながらも、決して「服と人との関係性」を無視せずに行われるクリエーションは1つの新しい次世代の形で、1つの答えなのではないだろうか。

いまお世辞にも、若者が「ファッションに夢や希望」を共有していないからこそ、ここまで深く考えずともANREALAGEのようにワクワクするようなブランドがもっと登場してほしいとおもう。

小田駿一 / ADD 共同代表兼編集部長

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