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ドリフターズサマースクール2011公演 レビュー

2011/9/14~16の期間KAAT 神奈川芸術劇場・中スタジオでドリフターズ・サマースクールの公演が行われた。ダンス・制作・ファッション・建築/ 空間美術の4 コースの講師陣と受講生、総勢70 名が一丸となって、ひとつの作品を生み出し、若き次世代クリエイターたちによる才能のぶつかり合い、エネルギーの渦が会場を包んだ。公演後にはトークショーが開かれ、14日(Wed)は建築ゲスト:鈴野浩一氏, 禿真哉氏(トラフ建築設計事務所),中山英之氏。15日(Thu)は岡田利規氏(演劇作家, 小説家, チェルフィッチュ主宰) 山田うん氏。16日(Fri)は西谷真理子氏(high fashionONLINE チーフエディター),玉井健太郎氏 (ASSEDONCLOUD),山縣良和氏(writtenafterwards)がそれぞれ参加し、われわれは16日(Fri)に参加させていただいた。衣装指導には玉井健太郎氏と山縣良和氏。特別衣装指導は廣川玉枝氏が担当した。

会場に入り席に着くなりパフォーマーらしき人物が「パフォーマンスは始まっています」と書かれたプラカードを持ち歩いていて、それをみてパフォーマーだと認識した。自分の目の前でパフォーマンスを行なっていて、何度かパフォーマーとぶつかることもあった。会場には洋服が山のように積まれており、パフォーマーが脱いだり、着たりを無言で行なっている。あとは天井から透明なナイロン素材のような薄い素材がぶら下がっている。洋服は古着なのか、制作されたものなのかにわかに判別しづらいモノであった。服を乱雑に扱ったり、遊んでみたり表現が適切かどうかわからないがまるで薬物依存者の様相を呈していた。遠くではミシンの音が聞こえBGMに合わせて小気味よくリズムを刻む。10数人のパフォーマーが個人個人で自由に動いており、何をみたらいいのか視線を激しく動かすことを強制された。絵画の手法として視覚を如何に動かすかという構図のテクニックがあるが、それを現実に表現しているかのようだ。そしていよいよダンスが始まる。コンテンポラリーダンスで今まで個々人バラバラだったが、団体で合わせたダンスも披露された。その中でおもしろいと思ったものは、暗闇の中で照明の点滅を利用することで人の像が分割され、アニメーションのような映像をダンスで表現したことだ。現実と非現実(アニメ)の同居には現代の世界観を如実に表しているものだと感じた。また突如アップルの創業者スティーブジョブズのプレゼンのモノマネを始めたときには、会場も笑って良いのかと理解したのか笑いが起き始めていた。会場の使い方も正面というものを設けておらず、視点の持ち方次第でさまざまな見え方がするという狙いを十分感じれた。そしていよいよクライマックス。1時間以上動き続けたパフォーマーの息も上がっていたが、最後は見事団体でのパフォーマンスを終え会場は拍手で包まれた。

公演のあとすぐトークに移る。まずは今回の公演の簡単な解説を説明された。「No direction」を作る側のテーマに作る過程から無秩序でスタート。期間も1ヶ月半くらいで作り上げてきたという。服の山は大量消費を現し、その表層で戯れることしかできない人間のライフスタイルを表現しているという。そこから話はダンスと服の関係へ。玉井氏はダンサーの個性が立ち上るという瞬間を目撃したといい、そこに服は関与していないのではないかという。服には機能的に限界があり、ダンスに不自由さを与えてしまうもとだと。しかしそれを飛び越えて、服の内側から溢れ出てくる個性というものの存在性がそこにはあり、服だけでは成り立たないものを改めて認識したとのこと。山縣氏はファッションの閉塞感を危惧する。震災後人々はバラバラになり、連帯が必要でファッションも個々ではなく連帯の必要性を投げかける。

「ダンスを○○する」と題された今回の公演は私には色々とキャッチーなセンテンスを含む内容だった。「No direction」というテーマは象徴的で、ポストモダンの概念と非常にリンクする。世の中に真理は無いと悟りただただ消費と戯れるしかできなくなった。震災後には、放射線問題での科学不信と情報隠蔽での政治不信。何を信じていいか分からない時代を象徴するかのように混沌としたカオスな表現がドリフターズ・サマースクールの公演で多くの方が感じたのではないか。おそらく初めて日本が個人の判断で行動しなければいけなくなった時代のいわば序章で、当分はこのカオス状態が続くのであろう。山縣氏のいう危惧とバラバラという表現は恐らくこのことを含んでいると思う。こうした状況下でファッションはどうすればいいのか。自分の好きなものを消費し、制作するというサイクルで今の人々の欲求を満足させることができるのか。経済も逼迫し、デザイナーが淘汰される時代になったとき果たしてバラバラのままでいいのか。少し悲観的な問題提起をしてみたが、実は私はかなりポジティブに現状をみている。日本に初めて民主主義と社会契約論の精神が成り立つかもしれないというマスレベルでの期待と、ミクロレベルでモノを作る人間が同じような認識を今持っていると感じているからだ。大局を乗り切るためには文化という無駄が必要であると批評家の東浩紀氏も述べていたが、具体的な政策や方法論ではなく文化が作る抽象的な概念が今必要とされているのではないかと思う。その担い手は今回の公演を行なったドリフターズはもちろん今現存する個々のクリエーターであるし、これからを担う学生たちだ。蛇足だが今円高が問題視されているが、これは特に若いデザイナーは海外に安く出られるチャンスであるし、どんどん海外に出ればいいのではないか。ファッションを盛り上げる一つのスキームとしてファッションで抽象論を提起することもおもしろいのではないかと今回の公演で考えさせられた。

Text:Fumiya Yoshinouchi

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